伊東英朗監督による映画「サイレント・フォールアウト」( "Silent Fallout")*1を観てきた。
これは是非とも見るべき映画である。
ヒロシマ(1945)・ナガサキ(1945)・第五福竜丸(1954)、スリーマイル島(1979)・チェルノブイリ(1986)・福島第一原発(2011)…と聞けば、戦争、そして原発事故による放射能汚染の恐怖に襲われる。ヒバク被害といえば、こうした核戦争被害や原発事故被害というできごととともに想起されることが少なくないが、そもそもウラニュウム炭鉱労働者の発掘現場での放射能汚染や、いわゆる米ソ冷戦時代におこなわれた数多くの核実験による太平洋諸島の島民のヒバク被害などが想起されることは少ないだろう。さらにそれがヒロシマ・ナガサキの加害側であるアメリカ合州国内の、たとえばニューメキシコ州やネヴァダ州での核実験による住民被害となれば、ヒロシマ・ナガサキ・第五福竜丸と福島第一を経験した日本ですら、想起されることはまずないのかもしれない。
けれども、いまから42年以上も前の1982年3月29日から4月2日にかけて、イギリスはケンブリッジ大学で開かれた国連大学主催の国際シンポジウム「世界の地理的―文化ビジョン」において、日本から出席された哲学者・故芝田進午氏(当時広島大学教授)は、「核時代のはじまり以来の人類の歴史は、原爆犠牲者としてうまれた“ヒバクシャ”の範囲がますます拡大し、多様になり、ついには全人類におよんできた歴史であり、またこのことが認識され、自覚されてきた歴史である」と指摘している。すなわち、「核時代」のはじまり以来、いまや地球上の人間はすべて“死の灰”を身体のなかに吸収させられており、その遺伝的影響を予測できないこと。すでに全人類はいまや潜在的被曝者になっていると強調しつつ、会場で、「あなた方やあなた方の家族もすべてヒバクシャなのだ」と喝破された*2。
この報告を練る際に芝田進午氏が心をくだいたことは、いかなる学術用語・基本概念・キーワードを使うかということだった。
そして、シンポジュウム提出論文(英文)で使った基本概念、シンポジュウム口頭報告で解説し国際語として普及することを芝田氏が望んだ用語こそ「ヒバクシャ」(Hibakusha)という日本語であった。
氏によれば、ヒバクシャという概念は以下のように整理される。
Ⅰ 被爆者(ヒバクシャ)
a 原爆で殺された死没ヒバクシャ ― ヒロシマ・ナガサキにいた日本人にくわえて、両市に移住ないし強制的に連行させられていた朝鮮人、中国人、その他のアジア人、ならびにアメリカ人、イギリス人、オランダ人、等の捕虜をもふくむ
b 原爆地獄から奇蹟的に生きのこった生存ヒバクシャ ― 右に(引用者注:原文は縦書きであるためこの引用では「上記に」の意)同じ。約四〇万人の日本人のほか南北朝鮮に帰国した朝鮮人、祖国に帰国した中国人、インドネシア人、等、および北米に移住した日系アメリカ人、カナダ人、等のヒバクシャをふくむ
c 被爆二世・三世
Ⅱ 被曝者(ヒバクシャ)a アメリカ・イギリス軍の兵士ヒバクシャ ― ヒロシマ・ナガサキに進駐し、放射線に汚染されて、原爆病になったとみられる兵士たち
b 核実験によるヒバクシャ ― 第五福龍丸乗組員をはじめとする日本人ヒバクシャ、ビキニ環礁、ネヴァダ、等をはじめとする中部・南部太平洋、アメリカ大陸の住民たち(ソ連・中国、等にも存在する)
c 核実験に参加した兵士ヒバクシャ ― アメリカだけで約五〇万人と推定される
d ウラン鉱山、ウラン・プルトニウム精錬工場の労働者ヒバクシャ
e 原発労働者
f 他の放射線によるヒバクシャ ― 核実験、原発事故、核燃料サイクルに由来する放射線によるヒバクシャで、死産になった“死にすぎた赤ん坊”ならびにすでに死んだ、あるいは死につつある“成人ヒバクシャ”をふくむ
Ⅲ ヒバクシャ
a 全人類 ― 核実験による死の灰や原発による放射性物質を身体のなかに吸収してしまった潜在的被曝者(ヒバクシャ)としての全人類
b 全人類 ― 核戦争による絶滅でおびやかされつつある可能的被爆者(ヒバクシャ)としての全人類
(芝田進午「核時代Ⅰ 思想と展望」青木書店 p.68~p.69 1987年)
映画の題名 「サイレント・フォールアウト」(Silent Fallout)を日本語に訳すとすれば、「静かなる放射性降下物」というところだろうか。あるいは「静かなる死の灰」か。映画「サイレント・フォールアウト」が扱っているのは、「核実験によるヒバクシャ …ビキニ環礁、ネヴァダ、等をはじめとする中部・南部太平洋、アメリカ大陸の住民たち」であり、核実験場のかざしもに住み、放射性降下物にさらされ、甲状腺がんや白血病などの発症率が増加させられている「風下住民」(Downwinders) たちやクリスマス島で被爆したイギリスの兵士たちである。芝田氏によるヒバクシャの概念整理でいえば、上記「Ⅱ 被曝者(ヒバクシャ)」の まさに b の一部となる。
さて、原子爆弾製作過程での、たとえばトリニティ実験による放射能汚染*3などを除けば、ヒロシマという人類にたいする核戦争攻撃のはじまり以来、人類は「死の灰」の恐怖に向き合わねばならない存在となり、これまでのいかなる歴史区分よりも重要といわざるをえない時代区分、「ヒロシマ紀元」「核時代」(いずれも芝田)という歴史区分のはじまりとなった*4。
ヒロシマ・ナガサキ・第五福竜丸・チェルノブイリ・スリーマイル・福島第一という点は、けっして過去のできごとではなく、まさに「核時代」がはじまる中で、(もし人類に未来があるとして)、それぞれ終わったことではなく、全人類がヒバクする可能性があるという未来のできごとと全人類がヒバクシャになりうる存在となったことと線で結ばれている。
いまや核戦争のスイッチをもつ独裁者によって支配された世界となり、独裁者に好き勝手にさせない、全人類が主人公となる民主化の課題が全人類の課題となったといわざるをえない。
映画「サイレント・フォール」の中で、アメリカ人の家族がアメリカ合州国の政府によって殺されてしまったと発言する場面があるが、核戦争において、勝ちも負けもない。絶滅か生存かという選択肢しか待ち受けていない中で、いわゆる核抑止力論や「核の傘」論が破綻していることは明らかである。まさにこうした言説こそが噴飯ものというほかない。
中学生の頃にジョーン・バエズやピーター・ポール&マリー(PPM)など、1960年代のアメリカ合州国のフォークソングを聞いていたわたしは、マーヴィナ・レノルズ*5の"What Have They Done to the Rain"(1965)*6なども聞いたことがある。たしか「雨を汚したのは誰」という日本語訳で、日本語でも歌われていたと記憶している。
また、ハリウッドスターたちが西部劇のロケで被爆した話も聞いたことがある*7*8。
そして、わたしは全く知らなかったが、映画で紹介されている「乳歯調査」(Baby Tooth Survey)。
1950年代に、ネヴァダ州などで展開された核実験による放射性ストロンチウム90(Sr-90)の影響を調べるために、全米の子どもの乳歯をサンプルとして集める運動を提唱したルイーズ・ライス博士(Dr. Louise Reiss)*9による「乳歯調査」(Baby Tooth Survey)*10。この運動は、「偉大なるセントルイス市民核情報委員会(Greater St. Louis Citizens' Committee for Nuclear Information)」*11や「放射能と公衆衛生プロジェクト」(Radiation and Public Health Project, RPHP)等の組織で展開され、こうした活動の成果が核実験禁止条約(Partial Test Ban Treaty, 1963)の成立に大きく寄与したと言われている。思うに、「乳歯調査」運動は、自然科学と社会科学が統一されたみごとな市民社会運動というべきものだが、ジョセフ・マッカーシーやその影響下にあった支持者たちが、冷戦時代の共産主義に対する警戒心から、核兵器廃止やその危険性を訴える活動を共産主義のプロパガンダと見なして批判したという。「乳歯調査」運動が、人種差別問題に関していえばけっして進歩的とはいえないミズーリ州*12が発祥の地というのも興味深い。
映画「サイレント・フォールアウト」で何回か示される放射性降下物による全米の汚染地図*13*14。
ネヴァダなどの核実験場から風に乗って死の灰の汚染が全米全土に広がっていることに驚かされる。死の灰は、まさに、住んでいる地域を越え、貧富の格差を越え、人種を越え、思想信条を越え、まさに世界の人類に降り注いでいると言わざるをえない。放射性下降物による全米の汚染地図は、太平洋戦争中に日本軍による偏西風を利用した「風船爆弾」を思い出させてくれた。まさに核兵器・原発による放射能汚染は、人類にたいする無差別攻撃というほかない。
日本政府がいまだ不参加を決め込んでいる核兵器(人類絶滅装置体系)を禁止する国際条約である「核兵器禁止条約」(Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons、TPNW)に背を向けることはけっして許されない。
*1:映画「サイレント・フォールアウト」の紹介記事はいくつか出ている。たとえば、ゴジラ目覚めさせた米核実験 「米国内でも900回。核兵器廃絶へ議会動かしたい」 - ひとシネマ
*2:このことは、すでに本ブログにて「…人類の歴史は、…“ヒバクシャ”の範囲がますます拡大し、多様になり、ついには全人類におよんできた歴史」(芝田進午) - amamuの日記などで紹介した。
*3:トリニティ実験の被曝については、映画「オッペンハイマー」に関連して記事に書いたことがある。映画「オッペンハイマー」で見たトリニティ実験の被曝 - amamuの日記
*4:「ヒロシマ紀元」という歴史認識と「核時代」に生きる哲学的意味については、映画「オッペンハイマー」を観て考えさせられたこととして記事にしたことがある。「オッペンハイマー」 ー「ヒロシマ紀元」という歴史認識と「核時代」に生きる哲学的意味を考えさせられる映画ー - amamuの日記
*5:Malvina Reynolds - Wikipedia
*6:What Have They Done to the Rain - Wikipedia
*7:未読だが、1988年に広瀬隆「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」が出版されている。
*8:ネバダ核実験場で行われた大規模な核実験のまさに風下にあたるユタ州のセントジョージで、ジョン・ウェインの出演した映画『征服者』の撮影が行われ。ジョン・ウェインを含む多くの撮影スタッフが後にがんを発症した。この映画に関わった220名のうち、91人ががんを発症し、そのうち46人が亡くなったと報告されている。その原因が放射性降下物に関連するか否かは科学的に証明されてはいないが、その因果関係が疑われ続けている。
*9:ルイーズ・ライス博士については、以下参照。Louise Reiss, 1920–2011 | The Week
*10:放射性物質ストロンチウム90が骨に蓄積されることがわかり、とくに子供の乳歯で測定することが可能だった。
*11:CNIについては、以下参照のこと。St. Louis Baby Tooth Survey
*12:ミズーリ州への旅に関する全米黒人地位向上団体からのアドバイス - amamuの日記
*13:この地図はたとえば、以下で見ることができる。Is Your State on this Map? — DOWNWIND
*14:映画「サイレント・フォールアウト」で使われたものではないが、ヒロシマ平和記念資料館にも、同様のものがある。広島平和記念資料館 | 展示を見る | 常設展示 | 5 核兵器の危険性 | 5-3 核の時代から核兵器廃絶へ向けて | 5-3-2 核実験が及ぼす影響 | 5-3-2-4 放射性降下物の広がり