映画「オッペンハイマー」で見たトリニティ実験の被曝

Oppenheimer

 映画「オッペンハイマー」の第一印象的な個人的感想はすでに書いた。

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 原作は未読だが、原作以外の、映画を観る方へのおすすめの一冊である藤永茂氏の「ロバート・オッペンハイマー」についてもすでに書いた。

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 ノーラン監督の「オッペンハイマー」には、考えるべき問題があまりにも多すぎて、ひとことで語ることのできない映画だと思う。バラバラにはなってしまうが、それでも、いくつか思いついたことを書いてみたい。

 ひとつは、まさに人類史上の核時代の幕開けともいうべきトリニティ実験の被曝のこと。そして、人類史上はじめての核兵器によるヒバクシャ*1とは一体誰なのかという問題だ。

 

 原子爆弾は光線・熱線・爆風と、とてつもないエネルギーを放出して多くの被害を生み出す。ひとことで言えば、爆発的な「被爆」である。

 また、原子爆弾は、放射線・残留放射線によって後障害・白血病・ガンなどの被害が後世に至るまで生じる。ひとことで言えば、「被曝」である。音声的には同じヒバクということになるが、漢字が違うこと、そして意味の違いに注目しなければならない。

 

 専門家ではないので正確に理解しているわけではないけれど、映画「オッペンハイマー」では、原爆よりも水爆のほうがより恐ろしいということは言及されていたと思うが、核兵器の恐ろしさにたいする正確な理解が不十分という時代的な制約もあり、前者の「被爆」のほうがより強調されていたように思う。つまり、後者の放射能による「被曝」の恐ろしさが十分に描かれていなかったように思うのだ。

 繰り返しになるが、もちろんこれには、時代的制約という理由がある。

 トリニティ実験はまさに人類史上の核時代の始まりであるにもかかわらず、放射能による被曝についての認識がまるで追いついていないことに戦慄せざるをえない。

 映画「オッペンハイマー」では、トリニティ実験の際に、両目を光線から守るためにオッペンハイマー自身がゴーゴルをつけたり、他の人間も両目を遮光したり、顔をコーティングしたりと、原子爆弾の実験にたいして自分の身体を守ろうとする意識は感じられるものの、放射能被害に対処すべき科学的方法が全く確立していないことに驚かざるをえない。科学者ですら放射能被害に対する無知をさらけだしていて、核時代にたいする「新しい考え方」(アインシュタイン)がまるでできていないことに驚愕するほかない。核爆発にたいして無防備に地面に身を伏せるだけの科学者や軍人を見せられて、放射能の怖さを知る現代人の観客であるなら、あの場面に底知れぬ恐怖を覚えるに違いない。

 これで思い出すのが、1950年代、原子爆弾による攻撃が予想される冷戦時代にすすめられたアメリカ合州国内の大規模な民間防衛運動である "Duck And Cover"(避難訓練*2)だ。核攻撃された際に一般市民がとるべき防衛行動として、ひとたび閃光が走ったら、すぐに身をかがめて頭を隠して身を守るという避難訓練で、とくに子どもたちに広く学校で教えられた。核爆発の閃光を見たら、すぐに机の下に隠れて顔や頭を守れという避難訓練だった。当時、冷戦の恐怖に慄いた市民に安心を与えるための具体策として受け入れられたが、今日、こんな防衛策では核爆発の衝撃や恐ろしい放射能にたいしてほとんど役に立たないと考えられているのは当然のことだ。

 全く役に立たないとは言わないけれど、トリニティ実験、そしてヒロシマナガサキ以降、さらに冷戦時代。まさに本格的な核時代が始まったにもかかわらず、その意味が全く理解されていないということに恐怖するほかない。

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 また、これで思い出すのは、人体に対する原爆の影響を調査するために広島の比治山につくられたABCC(原爆傷害調査委員会)だ。ABCCは治療をしないことで有名だった。原爆の効果を調べるためにヒバクシャを研究材料にしたという意味で悪名高かった。

 核時代という歴史区分を考えるにあたって、あらためて考えさせられたことは、ヒバクシャの始まりは、あのトリニティ実験のせいで死の灰を被り被曝したであろうことから、ヒロシマナガサキでヒバク(被爆・被曝)した日本人より先に被曝したのはアメリカ人をはじめとする国際的な科学者であり軍人だったと言うべきなのではないのか。さらにそう考えるならば、日本人より先に、ウランを採掘した鉱山労働者、そして同じく死の灰を浴びたであろうニューメキシコ州ネイティブアメリカンであったと言えるのではないか*3

 故芝田進午氏が警鐘を鳴らしたように、「核時代のはじまり以来の人類の歴史は、原爆犠牲者としてうまれた“ヒバクシャ”の範囲がますます拡大し、多様になり、ついには全人類におよんできた歴史であり、またこのことが認識され、自覚されてきた歴史」なのである。「あなた方やあなた方の家族もすべてヒバクシャなのだ」(芝田)という認識を誰が否定できるだろうか。

 映画「オッペンハイマー」を見て、核時代の、そしてヒバクシャの始まりは、あのトリニティ実験のために死の灰を被り被曝したであろうオッペンハイマーをはじめとするアメリカ人を含む国際的な科学者であり軍人だったと言うべきなのではないか。核は、人類を分け隔てなく、人種も性別も、差別なく平等に、人類を襲う。そうした核時代の認識をあらたにするほかない。

 故芝田進午氏が、「核時代のはじまり以来の人類の歴史は、原爆犠牲者としてうまれた“ヒバクシャ”の範囲がますます拡大し、多様になり、ついには全人類におよんできた歴史」であり、「またこのことが認識され、自覚されてきた歴史」であると喝破された所以である。

 映画「オッペンハイマー」は、そうした核時代の認識と自覚をうながしてくれる反核映画のひとつであると言えるだろう。

*1:ヒバクシャについては、「…人類の歴史は、…“ヒバクシャ”の範囲がますます拡大し、多様になり、ついには全人類におよんできた歴史」(芝田進午) - amamuの日記を参照のこと。

*2:duck は、名詞であれば、カモやアヒルを意味し、動詞となれば、ひょいと水に潜ることをいう。cover は隠す意である。duck and cover で、ひょいとかがんでかわすという意味になる。意訳すれば、避難訓練ということになるが、避難訓練では意味を取り違えてしまう可能性が出てくる。

*3:ヒロシマナガサキ以後であれば、ガン発症が多かったといわれる西部劇者のハリウッドスターたちの遠因が、西部劇ロケ地での度重なる核実験による被曝と関係があるのではないかと疑うことのほうが自然だろう。その意味でこうしたハリウッドスターたちも「被曝者」と言えるのではないか。哲学者の故芝田進午氏は、Hibakushaを「被爆者」と「被曝者」、そしてヒバクシャとに分析・分類されている。「…人類の歴史は、…“ヒバクシャ”の範囲がますます拡大し、多様になり、ついには全人類におよんできた歴史」(芝田進午) - amamuの日記を参照のこと。