「考える技術・書く技術」板坂元(1973)を読んだ

 「考える技術・書く技術」板坂元(講談社現代新書)を読んだ。

考える技術・書く技術(1973)

 初版は1973年だが、わたしのものは、1979年の第19刷のもの。

 「頭のウォームアップ」「視点」「読書」「整理」「発想」「説得」「仕上げ」「まとめ」という柱だてで、いろいろと刺激的なことが書かれていて面白い。

 たとえば、マージャンとKJ法の話。

 すみやかに反応するという点からいえば、わたくしはマージャンを、もっともすぐれたゲームとして推賞している。日本で生まれた発想法として、学界でも実業界でも広く用いられている川喜田二郎KJ法、あれをはじめて知ったとき、わたくしは「これはマージャンだ」と思った。まず、雑然として集められた情報は、配牌に見立てられる。手に入った情報を、いくつかのグループに分けるところは、マージャンでもまず実行する。そして、グループ相互の間の関連を考える過程は、マージャンの役づくり、そのあと、つぎつぎにツモってくるパイ(情報)によって、手もとの資料を組みかえることも、捨てられたパイからも情報をくみとって考えを組みたてることも、KJ法と似ている。KJ法についての本にはマージャンのことは触れていないが、わたくしはKJ法を人に説明するときには、いつもマージャンを例に出すことにしている。それがいちばん簡単なKJ法の説明のしかただと思う。

 マージャンを好む人は、与えられた情報に速やかに反応できる練習をしているわけで、脳の刺激という点では、マージャンほどすぐれたゲームはない。もちろん体力をすり減らすほどにやっても無意味だし、習慣になってしまって刺激がなくなれば亡国の遊戯になるかもしれないが、頭のトレーニングだと意識してやれば、すばらしく効果のあがるものである。マージャンに比べればゴルフのごときは足軽のやるゲームに過ぎない。最近、アメリカでも、ユダヤ人の間でマージャンが流行し、地区予選から全国大会まで催されるようになっているそうだ。彼らも頭脳のトレーニングとは気がついていないのだろうが、知的なゲームとしてユダヤ人に好まれるのは、わかるような気がする。(p.20-p.22)

 「型にはまる危険」として、次の指摘もおもしろい。

 これが、年をとってくると、すべてを経験と慣習にたよる傾向となり、ついには人生が無反省なルーティーンになってしまう。型を見つける努力がなくなって、型にはまることの連続となる。ここでも、老化現象が目に見えて強くなるわけだ。わたくしの見聞によれば、だいたい三十四、五歳を境にしてこの現象は急に目立ってくるようだ。われわれは老化を防ぐためにいろいろと工夫をするべきである。(p.26)

  「型にはまる危険」から逃れるために、「型把握」「型の練習の機会」として、「知的刺激」にあふれる本として、以下、著者は推薦している。「トレーニングのたね」はいたるところにあるということで、暮らしのものをあげているわけだが、こうした分野を「知らないことを自慢していることがよくあるが、これも頭のほどが疑わしい」と書いているところも、愉快だ。

 「ヒトの目をひく法ー視覚のポイント集」長尾みのる文化出版局

 「家政学序説」篠田統・長崎多美子(化学同人

 「スシの本」篠田統柴田書店

 「米の文化史」篠田統社会思想社

 「料理の起源」中尾佐助NHKブックス

 「栽培植物と農耕の起源」中尾佐助岩波新書

 

 くり返していうが、頭のよしあしなどというものは、つねに変化するもので、自分の身辺にいくらでもトレーニングの手段は転がっている。よしあしは、その手段を見つけてトレーニングをマメに実行するか老朽化にまかせるかによる。学歴とか教師の差などというものは、九割がた関係はない。試験の点数がアテにならないのと同様に、学校教育も信じられているほどには役に立つものではない。ただ、とりえといえばそれぞれの才能が伸びて行くのを、応援団のようにはげましてくれる点だけだろう。平凡な勝論になるが、つまるところは、自主トレーニング次第ということになろうか。(p.34)

 なるほど。

 あと、「英語を読む」「英語は逆ピラミッド」の話。

 …わたくしは芭蕉西鶴の専門だから、学生時代から英語にはまったく縁がなかった。高等学校ではドイツ語のクラスにいたので、辞書を引いて英語を勉強したのは中学の五年間だけ、といえよう。偶然に英国に行くようになったとき、前任者の「日本でする英語など畳の上の水泳と同じだ」という言葉をいいことにして、準備をまったくしなかった。出発の日に書店に行ってコンサイスの英和と和英を買ったくらいだから、英語は絶望的にできなかった。今でもそれがたたって、ひいき目に見ても上手とはいえないが、それでも英国に三年いてアメリカに渡るときには、テレビのニュースくらいは聞きとれるようになっていた。ところが、アメリカに渡ってみると英語がまったく聞きとれないのにはガクゼンとした。はかったことはないけれども、一般にアメリカ人の方が英国人よりもずっとはやくしゃべるようである。とくにテレビやラジオのニュースは三倍くらいの早さに感じられた。はじめは、センテンスの切れ目もわからないほどだった。夜逃げでもしたくなる気持ちというのは、ああいうときの心の状態をいうのであろう。

 ところが、そのころふと逆ピラミッド型のことを思い出した。われわれ日本人はピラミッド型の文に馴れている。つまり、どうでもよいことからはじまって大事な内容は文末の方に出てくる。そのため、日本語を聞くときは、生まれたときから文末に注意を集中するようになっている。それに対して、英語の方は逆ピラミッド型で、文のはじめに重要な主語・動詞があらわれて、文末に行くにしたがって些末な内容になる。だから、英語に馴れるためには、ヒヤリングの型をピラミッド型から逆ピラミッド型に切りかえねばならない。そう思って、まずラジオを聞きながら、文の切れ目だけを確認する練習をした。これにある程度馴れてきたら、つぎに文のいちばんはじめの語だけを聞きとる練習をする。それができるようになったら、今度は一番目と二番目の語をいっしょに聞きとる努力をする。こういうふうにして、だんだんと聞きとる語数を増加していった。どれくらいかかったかは覚えていないが、二ヵ月くらいでいちおうは聞いてわかるくらいにはなることができた。(p.78-p.79)

 なるほど。これはたいへん深く重要な指摘だと思う。

 さらに著者は続ける。

 これが最上であるかどうかは別として、相当に成果があがるものである。わたくしの日本語は聞きやすいとアメリカ人からよく言われるが、右(引用者注:原書は縦書きなので「上」ということ)と反対に日本語を話すときに、文末をゆっくりと、しかもはっきり発音するように意識して話すので聞きとりやすいのだと思う。日本語では普通この逆ピラミッド型の文型で話すときに、文末をはやく不明瞭に話す。それが自然の話し方のスピードとなっている。ところが、日本学の権威といわれ、日本語がペラペラといわれている人をつかまえて、何人にも文末をはやくしゃべる、つまり自然なスピードで話して実験してみても、ほとんどの場合通じなくて聞き返される。ヒヤリングの型が身についていないためであろう。われわれ日本人にとっては、これと、まったく反対のことが英語についていえるのではあるまいか。(p.79-p.80)

 なるほど。

 これは、互いに型の違う人間が、相手を知るという「孫子」の「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」の精神につながる話だろう。

 著者は、「全体をとらえる」という小見出しで、「もし、日本で英語教室を開くとしたら、わたくしは逆ピラミッド型の練習を徹底的に行なうカリキュラムを組むだろう。はじめは、ことばなしに、タン・タン・ターンといったリズムを練習させて、そのはじめのタンに当る語の聞きとりから聞きとる、というふうにすれば面白い英語教室になると思う」と書き次のように続けている。

現在、日常の英語にこまることはないが、疲れたときや話に興味をおぼえなくなったときには、今でも気がつかないうちに文末ばかりを聞いているほどだから、この型練習はちがった言語体系のことばを練習するには基本的なトレーニングではないかと思う。とにかく劇や詩の朗読のレコードを、何回もくり返し聞いて、そのころは練習したものだった。(p.80-p.81)

 さらに著書は、「知らない単語が出てくると一瞬ドギマギしてそのあとの文を聞きのがす癖が自分にある」と書き、「知らない単語があっても構わずに文を先へ先へと聞いて行く練習をはじめた」として、次のように書いている。

単語の一つや二つ知らなくても、これは印刷が悪くて字がかすれている文や活字の脱落した文を読むようなものだし、あるいは調子の悪いラジオを聞いているようなものだ、ということを何度も自分に言いきかせて、とにかく文の終わりまで聞くことにした。その単語がたとえキー・ワードであっても、そのつぎの文、つぎつぎの文と聞いていれば、全体をとらえることはできる。これはむつかしいようで、やってみると案外にはやく馴れるものである。

 この方法は、英語の文を読むときも、わたくしは実行している。新しい単語が出てきてもそこで辞書は引かない。少なくともパラグラフ全体は中断しないで読む。それでわからなければ、もういちど読みなおす、というふうに頑張って、できるだけ辞書を引かない。もちろん一言一句をゆるがせにせず、辞書を何冊もしらべて読むこともなくはないし、けっしてわるいことではない。けれども、話を聞いたり本を読んだりするとき、思想の流れを中断するのは、ぜったいによくないと思う。とくに、日本人の場合、文法はアメリカ人よりずっと知っている人が多く、読む能力は相当に高いのだから、この方法は実行しやすいはずである。(p.81-p.82)

 さらに著者は、「アメリカではどこの大学にも文の書き方のコースがあるため、型にはまった文を書く人が多く、型をつかまえやすいという利点がある」として、「馴れれば日本語の難解な、つかまえどころのない論文を読むよりは、ずっと楽である」と書いている。

 なるほど。

 板坂元氏の「考える技術・書く技術」は、版を重ねている新書だけのことはある。このほか、たくさん面白い話があるのだが、きりがないのでこの辺でやめておく。