英語を学んで何も変わらないというのはどこか変だ

Gone with the Wind

 今日、映画”Gone with the Wind”(風と共に去りぬ*1を自分のアパートの近くの映画館Strandで観てきた。よくわからない部分もあるが、storyと映像のせいで結構楽しめた。ただし、好みでいえば、私はこの映画はあまり好きではない。アメリカ人であれば、好きな小説として必ずこの小説を挙げると思うけれど、アメリカ臭く、だから嫌なのだ*2
 コミュニケーション・スキルの授業では、前にも書いたように、最近、男女問題を扱っている。Relationship(人間関係)という分野で、前にも書いたように、私はBob Dylanの"Wedding Song"を扱ったのだが、他に"Picnic"とか、男女の心理描写を討論することになる。これがあまり乗り気になれない。離婚後に財産を分けるとか、結婚する前に財産分与について署名するとか、自分には関心のないことばかり。「自分は、そんなに興味がないし、日本では離婚もそれほどpopularではない」と発言する*3と、クラスメートから「それは本当か」という顔をされるし、「関心がないのはおかしい」と言われたりもする。実際にそう言われると、どんぶり勘定で、手鍋下げてという日本の結婚観がとても好きになったりする。
 たとえば、カストロ通りCastro Street)は、ゲイが多く、センスの良い、ヒゲ面の優しい男が多い。日本のようにお茶ら気気分の扱いではなく、アメリカ人は本気なので、ある意味、疲れる。日本にいるとき、多少の冗談も含めれば、アメリカ人に興味があったけれど、ゲイは単なる風俗ではなく、性的嗜好性(sexual preference)として、かなり浸透している。彼ら彼女らが本気でアメリカ人らしく立ち振舞うので、ある意味、疲れを感じることもある。
 「風と共に去りぬ」の話に戻れば、”Gone with the Wind”のスカーレット・オハラ、レッド・バトラーがアメリカ人は本当に好きなのだ。観客の反応とともに映画を観たら、たかが映画ということでは済まされない。
 実力がついたということではないが、英語を学び続ける決意ができたから、日本に帰りたいという気もたまにする。と同時に、何度でも、好きなだけ、アメリカに来たり、滞在したいという気も強くしている。
 英語をマスターすることは、人間的な変化をもたらすことにつながるのだろう。英語を学んでも人間として変わらない、日本的世界にずっぽりと浸かっているというのは、何かおかしい*4。英語を学ぶのは、日本的道徳観の根幹を支える「根気」「忍耐」を養うためではない。他人を学ぶことであり、ひいては自分を学ぶことだ。それにしても、自分はなんと「素直(non-critical)」で「無批判的」人生観を持っているのだろうか。日本人としては自分はかなりのひねくれ者かもしれないが、あまり「論理的」ではない。
 日本に帰ったら、いろいろとやりたいことがある。まず、車の免許をとり、何とか車を買う。金もかかるだろうが、何とかなるだろう。何かと便利で、時間の節約にもなる。いま住んでいる日本の街は、観劇・コンサートなどでは、少し退屈な町だから。
 祖父がよく、”Life is short. Art is long.”と言っていた。祖父は学校にもあまり行かず*5、独学の人だったが、よくこんなことを知っていたと今更ながら感心する。父も、貧乏貴族的教養人だった。自分にも、そうした血が流れているのだろうと思うと、妙な気持ちになる。
 自分は今まで対決を恐れていたが、これからは欲しいものはすぐ手に入れるつもりだ。If you want it, take it ASAP. 考えてみれば、今までずっとぐずぐずしていた。If you want itとtake it.の間が随分と長かった。
 良い授業をおこなうためにも、もっと自分を高めないといけない。このことを肝に銘じ、詰まらぬ無駄なことに時間を取られたくはない。時には、Noと言わねばならぬことも多くなるだろう。八方美人は止めるつもりだ。
 いま私の目的は、英語で授業をおこなうこと。正確にいえば、発想として、自分が外国人と同じようなことができること。ある種の「人間改造」として、自分の中に40%くらいの外国人をつくること*6。今のところ夢にすぎないが、実現可能だろう。
 英語教育そのものはかなり重要である。私も含めて、力量のない人が、英語ではない、あくまでも日本語のEnglish Japaneseを教えても、受験勉強に役立つくらいのものである。一面的発達を克服し、人格の全面的発達を目指すためにも、言語教育は重要だ。このことに確信がもてた。

*1:http://www.imdb.com/title/tt0031381/?ref_=nv_sr_1

*2:Gone with the Wind”についての当時の私のこの評価は公平(fair)とは言えない。当時の私は、アメリカ人にとって南北戦争(Civil War)のもつ意味、O’HaraというIrish名やアイルランド系であることの意味、困難の中から立ち上がる強さに対する評価についてもよくわかっていなかったと言える。

*3:日本で離婚が少ないというのは現代日本では嘘になるだろう。

*4:「英語を学んでも人間として変わらないことは何かおかしい」という議論は、真剣な学びとしてわからなくもないが、一面では、「植民地化」「奴隷化」の恐れもあると、後年考えるようになった。

*5:父方の祖父は、明治の生まれで、小学校しか出ていないはずだが、「渋沢栄一いわく」とか「Dale Carnegieいわく」とたくさん筆で書いていた。

*6:国語学習は、食うか食われるかの闘いである。これも下手をすると「奴隷化」につながると後年考えるようになった。