母語を話す権利

 彼女のこうした見解は、ごくごく普通のものなのかもしれない。
 現在、ニュージーランドの小学校では、マオリ語がカリキュラムとして学ばれているけれど、ジュディは、これは問題ないと言った*1。「だけれど、ニュージーランドでは、英語なのよ」とジュディは言う。ニュージーランドに入ってこようとする移民も、もうこれ以上いらないというのが彼女の見解だ。
 「なんでマオリ語に執着しようとするのかわからない」という点は、私には異論がある。英語が便利で、英語でいいではないかという論は、母語を奪われ、人工的な外国語を話さなければならない悲しみをまるで理解できていないと思うからだ。これはジュディには面と向かって言わなかったが、ためしに、英語が母語のジュディが、その母語を奪われ、彼女にとっては別の人工的な言語を話さないといけないとしたら、どうだろうか。ためしに、我々が日本語を奪われて、英語しか話せないとしたらどうだろうか。私の考えでは、母語を話す権利、言語権というのは、いわば基本的人権の根幹に関わる重要な部分として、けっして軽視してはならないと思うのだ。もっともこれはジュディも認めている。彼女の言いたいのは、マオリ語だけで行こうとするようなことはやり過ぎだというのだ。
 私がマオリ語を習おうと思ったのは、何よりも第一に、母語を大切にする思想が大事だと思っているからだ。第二には、フィールドワークに行く際に、多少日常会話くらいはできるようになりたいと考えたからだ。第三に、教員として、たまに学習者の立場に自分を置くことが、教育活動をする際に大いに役立つと思ったからだ。それでも、ジュディにしたら、マオリの村落内ならいざしらず、外に行って通じないマオリ語を習うなんて、なんという物好きということになるのだろう。

*1:ジュディの意見だと、これは我慢しようというニュアンスが私には感じられた。