昨日は、ハミルトンのシティセンターにあるワイカト博物館に初めて行ってみた。
この博物館はビクトリア通りに面して建っており、4月にハミルトンに立ち寄った際に、ブリッジ通りに面した高台のモーテルに泊まっていた私は毎日この博物館の前を歩いて通っていた。旅行中は、こうした博物館に寄ることが、いわば定番であるのだが、ハミルトンではワイカト川の川岸や湖を歩くことで忙しく、いつも見よう見ようと思っていて見逃していた。この前、マオリ語の講師のヘミに言われて、そういえばまだ見てなかったと、遅まきながら気づいたのだった。
イギリス語で部族(tribe)と訳されていて、トライブというコトバは差別的な感じがして私は好きではないのだが、マオリが大切にしているトライブを意味するイウィ(iwi)というコトバがある。このイウィは、先祖と関連して名づけられることが多いようだ*1。
さまざまなイウィがあるのだが、一千年以上も前にワカ(waka)で移民してきたと言われるマオリは、相互に関連を持ち、今日までイウィ間の関係に影響を及ぼしていると言われている。自分がどこに所属しているのか、土地や先祖と自分の関係を大事にするマオリのことだから、当然のことである。例えば、タイヌイカヌーでやって来て先祖が同じとされるワイカトとンガティマニアポトのグループ同士は、歴史的に共同してきたという具合だ。
この前訪れたロトルアのオヒネムツには、マオリのアラワ(Arawa)の人々が集まる重要なマラエがあった。ロトルアには、アラワというグループが住んでいるのである。
博物館の展示をみると、ここワイカトの地では私もよく聞くことの多いタイヌイ(Tainui)というマオリの部族が12世紀ごろ北島の東海岸に着いて、それから北島をぐるっと時計と反対方向に回るかたちで、聖地カーフィーア(Kawhia)に住み着いたということだ。
博物館内で最初に見た鳥の羽をうまくあしらえながら細かく編んでつくったクロークは見事だった。前にも紹介したヘイティキや出土されたマオリの武器などが、薄暗い部屋の中で、スポットライトが効果的に使われ、上手に展示がされている。
けれどもキリキリロア(ハミルトン)のワイカト博物館で見るべき圧巻は、ワカ(waka)と呼ばれるカヌーだろう*2。テウィニカ(Te Winika)と呼ばれる戦いのためのカヌーで19世紀前半にさかのぼるが、80年代に修復されたものである。
全長どれくらいあるのだろうか、非常に長いカヌーの前方には、マオリの彫像の顔があつらえてあり、枝と白い羽を使って、輪が2つある。船自体も立派だし、彫刻も素晴らしい。とりわけすごいのが前の船首(prow)と後に突き出た木材の彫刻だ。博物館内に展示されているものは、大変見事なワカである。
「クジラの島の少女」の最後のシーンに、主人公のパイと父親、祖父、そして多くの仲間とカヌーで漕ぎ出す場面がある。いま私の眼の前の70年代から80年代の写真を見ると、ワイカト川の岸辺で見物する人たちを背景に数台のカヌーにマオリが乗っている。なんとも壮大な写真だ。どうやら近年ワイカト川でワカに乗ることも復活させたようだ。推測だが、これらは、マオリの復権運動と大いに関わっていただろうから、マオリにとって、その復活は象徴的な出来事だったことだろう。
博物館はビクトリア通りとワイカト川にはさまれて建っているので、ワイカト川に向かって一面ガラス張りになっている壁面がある。ガラス越しに見えるワイカト川もきれいだ。ちょうどワカの前の部分がワイカト川と直角に対峙しているので、あたかもこれからワイカト川に漕ぎ出すかのような錯覚にとらわれる。
この4月にキリキリロアに来た際にワイカト川に魅せられてワイカト大学(The University of Waikato)に決めた私は、ワイカト川がマオリにとってどれほど偉大な川であったのか、この博物館を訪れて、直感的に理解できたような気がした。
このワイカト川で、マオリは、うなぎや貝類、海草、伊勢海老を採取して食べていたと展示に説明書きがある。以前クラスメートのホアニからマオリが海産物を結構食べると教えてもらったことがあるけれど、これでは「食べるらしい」どころではないと、認識を新たにした。
またワイカト川のあちこちにマオリの村落があったと展示がある。マオリは、チーフや男性が中心となって栽培計画を立てていたと読んだことがあるが、さつまいものようなクマラ(kūmara)や他の芋を育てていたと説明されている。ワイカト川は、まさに当時のハイウェイであり、レストランであったわけだ。
帰りがけに、「あのような素晴らしいワカに自分も乗ってみたいものだ」と入り口の係員に話をすると、毎年3月にカヌーのレースが開催されるという。これは是非観てみたいものだ。