勉強は面白くないといけない

「日本語の作文技術」本多勝一

 いま私が好きなことは、モノを書くことだ*1マオリ*2でも英語でも日本語でも、書くことが好きなのだが、どれが一番好きかと言われれば、もちろん母語・日本語で書くことだ。
 それじゃ、書くことがうまいかと言われれば、見ての通り、格別上手というわけでもない。でも、好きなのである。いわば下手の横好きということなのだが、書き続けていればそのうち多少は上手になるだろうと楽観している。だから、こうして今もブログを更新しているというわけである。好きなことはなんでもそうなのだろうけど、書くことについては、全く面倒に感じない。
 あと私が好きなものは、音楽を身体と頭で感じること*3と、自然散策とかサイクリングである。軽スポーツと言いかえてもいいが、自分の足を使って移動しながら見聞する旅が好きなのである。他に料理もあるけれど、これは余暇というより、生活の基本だから別に扱うべきものだろう。
 書くこと、それに音楽と、軽スポーツ。
 これら私が現在好きなものは、実は学校時代は、どれもみな苦手で、大嫌いだった。その原因は、はっきりいって教師の教え方が下手だったからだと思っている。何故かといえば、書くことも、音楽も、軽スポーツも、みんな楽しい(fun)はずのものだからである。
 プロのレベルはいざ知らず、子どものレベルならば、音楽やスポーツが苦行であるはずがない。否、苦行であってはいけない。子どもや生徒は本来音楽やスポーツがみな好きになるはずだ。それを好きにさせることができなかったのは、教師がヘボだったからと言わざるをえない。大体、教師自身が楽しんで(fun)やっていなかったのではないか。教える側が楽しんで、楽しさを教えようとしなければ、どうして子どもが楽しく感じることができようか*4
 百歩譲っても、クラス人数が多すぎて、教師が子どもの様子をじっくり観察して、適切な指導ができなかったからではないか。つまり、面倒見が悪かったのだろうと思うのである。あるいは、子どもが興味をもって勝手に自然に遊び出すようなフィールドや道具がなかったからなのかもしれない。いずれにせよ、こんなに楽しいことが嫌いになるなんて、子どものせいにはできないと思うのである。
 それでもとにかく私は、作文課題は大嫌いだったし、音楽の授業なんて、音楽鑑賞も音楽演奏も退屈。大体、大太鼓や小太鼓など、身体の大きな特定の奴がいつもやっていて、自分のところまで楽器の順番が回ってこなかった*5。ひどい時には、ピアノの練習か何かを、紙鍵盤でやらされた思い出もある。紙鍵盤で音楽を好きになれという方が無理ってものだ。これは教師の指導以前の問題である。
 体育の時間なんて、一番気持ちが楽になれず、早く終わらないかなとよく思っていたものだ。学校が終わってから、みんなで勝手にサッカーをするのが何よりも楽しみであったにもかかわらず、である*6
 私が子どもの時に好きだったのは何と言っても図画工作。精密画なんかが好きで、時間を忘れて描いていた。
 作文や音楽、スポーツを嫌いになった原因をつらつら考えてみると、作文については、自己表現したくなるような表現したい面白い対象がなかったこと。遠足*7やつまらぬ読書課題について無理やり感想文を書かされたことが嫌いになった原因だろう。音楽については、満足に楽器を与えてもらえなかったこと*8。ときに紙鍵盤などで授業をやらされたことが原因に違いない。軽スポーツについていえば、周囲に、自然と自由に遊べるフィールドが少なく、道具も持っていなかった*9ことが原因だろう。
 だから中学時代から高校時代にかけては、いろんな教科に興味が持てず、それらから逃げ込むようにして、外国語に憧れたように思う。いわば私は、母語・日本語にも背を向けた裏切り者だった。
 教科全体の成績はまずまずだったけれど、「だから何なの」(So what?)状態で、高校時代も興味のもてる英語だけをやっていた。ただし、それも独学で、並みいる英語教師の中で、私がいいなと思ったのは、一人だけだ。
 この英語教師は、「たそがれ」とは「誰が其れ」と、誰だか認識できないほどの夕暮れどきをいい、英語ではそれをtwilightというのだとか、「焼く」といっても、英語じゃ、bake, grill, roast, broil, toastと、いろいろあるとか、文化的にも深く教えてくれた唯一の英語教師だった。
 この恩師は、「ここは丸暗記をしろ」とか、「ここは試験に出るかもしれない」などと、下らないことは全く口にしなかった。試験で脅すのは、へぼの教師がやることだ*10
 彼は、英語というものをよく知っていて*11、なおかつ、大言語である英語に魂を奪われず、スノビズムとも無縁だった。この恩師から海外見聞を聞くことはほとんどなかった*12から、おそらく文献だけで自らのイギリス語的教養を身につけていったのだろう。今の時代のような柔な世代とは、鍛え方が違う。徹頭徹尾、彼はリベラルだった。
 高校時代の私は英語以外にはあまり興味を覚えず、国語も嫌いだったけど、読書の楽しみは覚えはじめ、教科としての社会も好きじゃなかったけれど、政治的無気力・無関心の象徴のような私でも、ジャーナリスティックなノンフィクションを読み始めたりして、青年期特有の社会的関心が芽生えはじめていた。それで、大学時代は、英文科だったにもかかわらず、どちらかというと、社会学や社会科学にのめりこんでいったのだった。
 だから大学時代はろくすっぽ英語の勉強をしていない。また、面白い英文科の教授にもあまり巡り合わなかった*13
 こんな私でも、たまたま運よく、度量の広い今の職場に拾われたのだけれど、私の場合、今まで書いてきたような経緯から、英語教師の本流ではありえない。だけれども、社会の見方など、基本的視座は大学時代にできていたから、社会学や社会科学を土台にして、独学でイギリス語を学んでこれたことは、案外よかったかもしれないと思っている。自分ほど幅の狭い人間はいないと痛感しているので、英語だけやってきた人間よりも、社会科学をやって多少は幅が持てた分、よかったと思っているのだ。

*1:多少引っ込み思案な性格の人間の最後の自己表現の拠り所ということなのかもしれない。ところで、話すことが上手な人と書くことが上手な人は、その能力がまるで別。話すのが得意な人が書くことも上手とは限らないし、書くことが上手な人が話すことも上手とも限らない。書くことと話すことは、まるで違う頭の脳味噌を使っているというくらいに考えておいた方がいい。

*2:マオリ語は自力では充分に書けないけれど、それでも書くことは好きだ。

*3:演奏もするが、まるで下手くそで、人に聞かせられるレベルのものではない。

*4:教える対象に対して教える側が愛着をもって授業をしている授業が私は好きだ。大学時代のシェークスピアや絵画の専門家の授業は、いずれも本人たちが好きであるということがとてもよくわかる授業で、私はそうした授業が好きだった。

*5:今は身長が177cmくらいあるけれど、小学生の時は小さくて、前から数えた方が早かったから、大太鼓なんて無理だった。

*6:サッカーでは釜本・杉山選手が活躍した時代や、東京オリンピックメキシコオリンピックの頃も日本でサッカーが盛んになった時期だけれど、当時は大人のコーチなんか全くいなくて、子どもだけで勝手にサッカーをして遊んでいた。

*7:遠足は楽しかったが、その後に出される感想文の課題は嫌だった。

*8:小学校5年のときに自分でウクレレを買って、一応弾けるようになり、そのあとギターに興味を覚え、高校時代にギターを弾き始めて、ようやく試験でよく出された移調なるものについて理解した思い出がある。

*9:中学生の頃に、何段ものギアチェンジができるクリームイエローの自転車を親から買い与えてもらったときは随分と嬉しかった。

*10:そもそもstudyとは、よく観察して「研究」をするという意味で、「詰め込む」という意味はない。詰め込みは、cramで、全く似て非なるものである。「教育する」という意味のeducateだって、「生徒の力を内側から引き出す」というニュアンスが感じられるコトバだから、educateは、「訓導」とは似て非なるものだ。この点で、戦前の「注入」するという「叩き込む」訓導から、精神的にも実際的にも技術的にも脱しないと、本当の意味で教育活動における「戦後」にはなりえないのだろう。

*11:高校教師にまず求められるものは、教え方のテクニック以前に、教える科目をよく知っていることだ。教え方のメソッドにたけても、これができていないと何にもならない。メソッドに凝る時間があるならば、対象をよく知ることに、より多くの時間を割いた方がいい。

*12:海外渡航解禁になったのは、私の記憶に間違いなければ確か1964年のことで、私は小学校高学年だった。自分は海外に出かけることは一生涯ないと思いながら加山雄三若大将シリーズB級映画をその代償としてよく観ていたものだ。

*13:大学の先生で、最近の学生は勉強しないとの嘆きを聞くことも多いけれど、嘆く前に自分の授業を反省しないといけない点もあるようだ。