ピロンギアのアレキサンドラ砦跡地

 次に、ピロンギアの二つの跡地、Site 15-Alexandra Redoubt, Pirongiaと、Site 14-Alexandra East & West Redboubtsを訪れるためにピロンギアに行くことにした。
 オハウポから、テ アワムツ方面には行かずに、左折してピロンギア、カーフィア(Kawhia)方面に進む。
 白人にとっては単なる小さな町にすぎないが、マオリ語の授業で私が発表したように、マオリにとってカーフィアは聖地のようなところだ。
 マオリ語の講師のヘミが連れて言ってくれると私に約束をしてから、彼の父親が亡くなったり、私がロサンゼルスに行ったりということで、まだ肝心の約束を果たしてもらえていないのだが、そのうちカーフィア行きも実現することだろう。
 ピロンギアは、このカーフィアのずっと手前、ピロンギア山の麓に位置している。
 ピロンギアのアレキサンドラ砦(Alexandra Redoubt)は、ワイカト地方では、現存する中では最もその原形をとどめている砦として有名である。
 ここから2キロ南に、マオリ王のタフィアオ(Tawhiao)の居住地、ファティファティホー(Whatiwhatihoe)があり、いわばテアワムツ同様に、白人とマオリとがにらみ合っていたフロンティアの町だったようだ。ただし、ワイカト土地戦争が繰り広げられた1863年〜64年のあと、1881年には平和協定が取り結ばれ、移民たちは恐怖心を抱えて暮らしていたにもかかわらず、タフィアオ王との関係は平和的であったようだ。
 現在のピロンギアはほんの小さな町だが、当時の植民の様子をみると、1860年当時は、アレキサンドラホテルなど、ホテルが二つ、銀行や、パン屋などさまざまな店があり、その時期には大きな町にしようと計画されていたようだ。
 ワイパ川が近くを流れているので、川がいわばハイウェイだった当時は、交通も便利だったに違いない。
 けれども、20世紀に変わる頃に、ピロンギア山*1にちなんでマオリ語のピロンギアと、その名を変えたけれども、政府が資金的に貧窮をきたして、移民は去っていき、大きな町にはならなかったとのことだった。
 今日は日曜日だというのに、ボランティアだろうか、二人の年配の女性がインフォメーションセンターを運営している。
 雨模様の天候の中をようこそと別の観光客のカップルに私は歓迎されたのだが、彼らもまた、以前英語を教えに日本に来たことのある親戚がいたらしく、その親戚は、日本が大いに気に入って、また日本に行きたいと言っているとのことだ。
 今日はたくさんの観光客が訪れているわけではないけれど、このインフォメーションセンターは日曜日でも10時から3時までやっているというし、10台くらいの観光客の車を見かけたから、ピロンギアは結構な観光地なのだろう。
 インフォメーションセンターの女性はとても親切な人で、私がマオリ語を習っていることを話したら、「私よりもあなたの方が確実にマオリ語に堪能だわ」と、いつもと同じコメントが返って来た。
 彼女にまた来ることを約束して、私はピロンギアを去った。
 帰りにピロンギア山の方も少しだけ寄り道してみたが、ここのピロンギアフォレストには、いくつかのハイキングコースがあるようだ。
 本日の走行距離は、95キロ。

*1:イカト地方では、ピロンギア山はどこからでも見えるので、ランドマークの山のひとつになっている。