われわれ日本人は、時間の使い方も、金の使い方も、下手くそだ

 私は、日本で25年間働いてきたが、一般論として先進国と言われる国の中で日本の労働者ほど悲しい存在はないと思っている。
 まず、労働時間が朝から晩までと長い。通勤時間も長い。おまけに奴隷船を思い出させるような満員電車*1
 日曜日もなく、働かせられていることだって普通にある。
 現在の日本の都会では、スーパーのレジの人間と挨拶を交わすこともない。街角ですれ違いの人と話しこむこともない。理由は単純。忙しくて、そんなことをやっている暇がないからだ。こうしたことはキーウィにとって当たり前のことだから、そう私が説明すると、そんなに忙しいのかと理解不可能な顔をする。
 こうして時間奴隷や個人の時間の犠牲と引き換えに得る賃金は、世界の水準に比べて高いかもしれないが、住居費や教育費と、出ていくものも大きいから、手元には何も残らない。選択肢がなく、なんだか訳もわからず高い物を買わざるをえないこともある。それでも老後が不安だからと、貯金をせざるをえない。日本では、年金だって、わけもわからず、大変だ大変だと脅かされているだけだ。
 私の生活哲学では、人間の能力として、「時間の管理学」と「金の管理学」が最重要だと思っている。時間と金の管理ができれば、人生だいたい楽しめるはずだ。
 ところが、この時間と金の両方とも、管理しにくくなっているのが平均的日本人の現状だ。一例をあげれば、前にも紹介したように、四・五日間ほどのオークランドとロトルアとワイトモ洞窟の三角カミカゼ旅行は、キーウィには全く理解できない。これも、もう少し詳しく言えば、「時間の管理学」「金の管理学」からして、なんなんだろうねと、キーウィには理解できないのだ。私はいつもこうした日本人を日本の恵まれた人たちなんですよと擁護しているが、私が擁護したところで、キーウィが理解できないのは同じことだ。
 時間でいえば、貧乏人にも金持ちにも等しく24時間与えられているのだが、時間の使い方でいえば、言うまでもなく千差万別である。「時間の管理学」の点で時間を有意義に使える能力の高い人間もいれば、貴重な時間を浪費しているだけの人間もいる。金だって、多い少ないの違いはあるにしても、「金の管理学」の点で有意義に使いこなせる能力の高い人間もいれば、浪費したり、あるいは、有意義に使うことなくあの世に行く人間だっている。
 24時間の時間でもう少し言えば、貧乏人も金持ちも8時間は睡眠に当てるとして、あとの8時間は、労働し社会に貢献するとしても、あとの8時間は、自分の時間にあてたとしても悪くはあるまい。世界の先進国といわれる国々では、大体そうなっているのだ。
 繰り返すが、三分の一は睡眠、三分の一は社会貢献、残りの三分の一は個人の時間。これがバランスというものだ。
 けれども、日本は、滅私奉公が主で、個人の時間はほとんどない。過労死*2などというひどい用語があるのも日本だけ。ひどい場合には睡眠すら削られている始末だ。当然、家族の時間も、個人の時間もない。
 これを、時間奴隷と言わずして、何というべきなのだろうか。
 したがって、子育ての最中や働き盛りの最中は、家族で長期旅行などできない。せいぜい三・四日の旅行で、これがまた皆が一度期に出かけるものだから、旅行に行ったというより、疲れに行くようなもの。それでも旅行ができる人たちは、まだ恵まれた人たちだ。夫婦の旅行だってできない。夫婦仲がよければ、せいぜいリタイヤしてからの旅行である。それでもなんでも、そういう人たちはまだ恵まれた人たちだ。
 それでも大変不思議なことに、世界の中で、日本はましだと日本人は考えている。
 だから国民不在のひどい政治が横行しても、政権交代もない。

*1:私は満員電車のことを「鰯の缶詰のように詰め込まれている」とキーウィに対してよく冗談を言っているのだが、日本では冗談として笑えないところがとても悲しい。

*2:過労死は、death from overworkingとでも言うのだろうか。karoushiという英語があるという話を聞いたことがあるが、実際に使われているのを聞いたことはない。大体、過労死など、概念自体が、英語圏では理解不可能だろう。