いま日本人の暮らしぶりは、スピードや効率が求められ、人間らしい生活が急速に成り立たなくなってきている*1。
これは私の持論だが、日本の労働者は「奴隷状態」で働かせられている。
「スローライフ―緩急自在のすすめ (岩波新書)」というこの筑紫さんの本は、衣食住・教育・学習・地域共同体という暮らしをめぐるテーマをめぐって、そのあるべき姿、原点を探っている。
体系的な学術書ではなく、いわばエッセイ的な啓蒙書であり、これまでにもよく指摘されてきたテーマを扱っているのだけれども、筑紫さん的というのか、その切り口がためになったし、なによりも気軽に読めた。
例えば、「失われた「子どもの楽園」」という項がある。
幕末から明治にかけて日本にやってきた欧米人の観察記録は、「「子どもの楽園」としての日本」という視点で彼らが共通に日本を観察していたという話は結構有名な話だが、それが現代では、「こんなに目に光がない子どもたちが多い国は世界のどこにもない」と筑紫さんは書いている。
筑紫さんは、「私は教育における「速度」が大いに関係していると思う」と指摘し、「こうした速い(フアスト)教育と対比して遅い(スロー)学習とは何かを私たちは考えなければならない」と主張し、さらに「自発性」の重要性を強調する。
考えてみれば、今の世の中は、「結果」だけを強調し、やたらに「効率」を強調している。
ところが教育となると、そもそもが違う視点が強調されなければならない。私も私の教員仲間もほとんどがそうなのだが、「結果」が出て欲しいとは願っているけれども、実は「経過」重視型である。それは教育という仕事が求める論理なのだ。それが今日、教育現場に新自由主義的な財界の要求が露骨に乱入しているせいで、教育現場がめちゃくちゃにされている。よく指摘されることとして学校は企業ではないのに、企業的経営が持ち込まれている。これでは、教育が死んでしまうのは自明の理だ。
考えてみれば、昔の人は、「経過」を大事にしなさいと強調して、結果はあとからついてくると強調したものだ。ところが今はどうだろう。「結果」が出なければ、「経過」なんていくら良くても無意味だという人が、この日本には多くなってしまった。
保護者もあせらされて、結果が出ないと、教員に食ってかかるようになってしまった。
これは逃げの論理ではないのだが、教育なんて長い眼で見ないといけないものだ。生徒だって、即席に、ものがわかれば苦労はしない。何度も何度も繰り返し続け、少しずつ、ときには突然にわかるものではないか。
「雨だれ石をうがつ」「急がばまわれ」「石の上にも三年」。
これは懐古趣味では全くないのだが、昔の人が言っていたことは理にかなっていることが多いと今更ながら思うことが多い。
さて、筑紫さんのこの本の中の「「木」を見直す」など、衣食住の話も、ためになるというか、私のあこがれでもあるのだが、それが実現できない貧困さが日本の象徴ということにもなる。
自分のことは自分で一から考えて実行しないと私たちは不幸になるばかりだ。
これも筑紫さんが紹介していたのだが、「日本人はなぜもっと幸せになろうとしないのだろう。そのためにボクは映画を作り続けているのに…」と、名画を作り続けてきた黒澤明監督は生前よくそう言っていたという。
筑紫さんは言う。
「それぞれの生は他人のだれにも代替できないのだから、その生き方は「世間」に律せられるのではなく、それぞれが自分で考えるしかない。これがひとつ。
もうひとつは、人は他者との関係なしに生きられないのだから、自分が生きたいように生きるためにも、他者、社会への働きかけをしていかねばならない」。
日本の貧困さに対する問題提起として、本書の一読をお薦めする。