武器所有に関しては、いっせのせで止めるしかない

 アメリカ合州国の銃の乱射事件だが、豊臣秀吉の刀狩以降、権力が武器を独占してきた日本と違って、アメリカ合州国はフロンティア精神を大義名分とする、市民が武装する伝統がそのまま残っている。ある意味では、きわめて野蛮な社会だと思う。
 合州国では銃の保持が当たり前だし、射撃訓練が強制されている町もあるくらいだ。26年前に初めてアメリカ合州国はサンフランシスコに滞在した際に、「クイズ100人に聞きました」の原形であるFamily Feudというクイズ番組で、「家の中で銃をどこに隠していますか」なんていう問題があったことを今でも鮮明に覚えているのは、銃に関して日本との意識の違いが大きいからだ。
 いくら個人の権利といってみても、銃の乱射による無差別殺人事件が後を絶たないという結果からみて、世界では、銃規制が必要だと思う人は少なくないと思う。
 「ボーリングフォーコロンバイン」でも表現されていたように、「全米ライフル協会」の圧力も大きな問題があるけれど、結局は、どのように秩序を形作るのかという問題であるに違いない。
 これは、日本国憲法憲法九条による世界秩序の形成か、軍隊という暴力に依拠する秩序の形成かという問題と重複する問題であると思うし、教師の体罰は許されるのかという問題ともつながっている気がする。
 人間とは、性善説なのか性悪説なのか。性悪説に、たとえ立つにしても、それを抑制するのは、やはり理性や教育の力に待つしかないというのが、人類が取りうる方向性だと思う。
 26年前に合州国に滞在した際に、「犯罪率」(crime rate)というのが各都市ごとに示されていて、それを参照して引越しをしていると聞いたことがあった。合州国では、安全はお金で買うという発想があることも教えられ、アメリカ合州国から比べたら日本の治安は素晴らしいとも思った。けれども、先日の長崎市長候補者狙撃事件を例に出すまでもなく、その日本の安全神話も危うくなってきたと言わざるをえない。