新聞で報道されているように、9月27日に御嶽山(おんたけさん)が水蒸気噴火し、多くの死者が出る大惨事となった。登山中にお亡くなりになった方々やご遺族の方々の胸中を察するに、お悔やみの言葉もない。
御嶽山の水蒸気噴火は、噴火災害での死亡事故としては1991年の雲仙・普賢岳の死者数43名をこえて、戦後最悪の56名となった。
前兆が全くなかったわけではないようだが、英知を結集しても、現代の科学の水準では、噴火の予想が難しいことがあらためて明らかとなった。日本は火山列島であり、地震国であり、自然の力は、人知の及ぶところではないということを私たちはあらためて自覚しなければならない。
少なくともそう考えることが科学的態度と言えると思う。
人間の不遜さや傲慢さとは全く関連はないけれど、この御嶽山の水蒸気噴火は、人間の畏敬の念の欠如に対するあらたな警鐘のように思えてならない*1。
全く関連がないかもしれないが、しかしながら、もし「安全・安心」を考えるならば、原発の問題もこうした事実と現実から出発するほかない。
それは御嶽山の水蒸気噴火は自然災害といえるだろうが、原発事故は人災であるからである。
九州電力の川内(せんだい)原発の再稼働の問題だが、原子力規制委員会の田中俊一委員長は、御嶽山の事故と原発を「一緒に議論するのは非科学的だ」と発言したと、毎日新聞が報じている。
http://mainichi.jp/select/news/20141002k0000m040102000c.html
しかし、神でもない限り、「想定外」の自然災害が起こらないとは田中俊一委員長といえども、言えないだろう。実際にそうした発言はないようだし、確立性が低いとしても、全くゼロとは誰も言えまい。
その証拠に、実際に、地震国日本では、地震が続き、大きな地震によっては津波が起こり、福島第一原発事故も、御嶽山の水蒸気噴火も、この8月には口永良部島でも2014年8月3日に約34年ぶりに噴火したのだ。
こうした事実は、誰も否定できない。
自然災害は起こるのである*2。
自然災害を完璧に管理できる能力は、今のところ、人間にはない。
巨大噴火はここ30年、40年の間に起こるものではない。天災がいつ起きるか分からないので社会的活動をやめてください、という考え方では仕事はできない(田中俊一原子力規制委員会委員長)
巨大噴火を予測することは難しい。火山学者は「現在の火山学では巨大噴火の予測は困難」との認識を示している。だから、今回の御嶽山の水蒸気噴火も予測できず被害が拡大したのだ。
もちろん、その管理もむずかしい。不可能である。
正確な内容そのままではないが、田中俊一委員長が言われれるように、「天災がいつ起きるか分からないので社会活動をやめてください」と言われて、社会活動をやめる人もいまい。
問題は、原発を、火山列島であり地震国である日本に建てる「非科学的」態度である。
これは、自然災害に人災を重ねることになる。
まさに、福島第一原発事故が示した多重構造災害ではないのか。
自然災害のうえに人災を重ねる愚。
それは、「安全・安心」を無視・軽視、かけがえのない生命を無視・軽視する哲学の欠如から生じているのだろう。そして、そうした考え方こそが「非科学的」と言えまいか。
私にはそのようにしか思えないのだが、こうした“専門家”によるものいいそのものが私には全く理解できない。