以下、朝日新聞デジタル版(2021/3/12 5:00)から。
「原発に頼らない社会を早く実現しなければならない」。朝日新聞は東京電力・福島第一原発の事故を受けて、2011年7月、「原発ゼロ社会」をめざすべきだと提言した。
その後も社説などで、原発から段階的に撤退する重要性を訴えてきた。主張の根底にあるのは、「再び事故を起こしたら、日本社会は立ち行かなくなる」という危機感である。
最悪の場合、止めたくても止められない――。福島の事故では、原発の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。
生々しい記憶が10年の歳月とともに薄れつつあるいま、脱原発の決意を再確認したい。
■廃炉への険しい道
原発が事故を起こせば、後始末がいかに困難をきわめるか。目の前の厳しい現実もまた、この10年の苦い教訓である。
つい最近、廃炉作業中の2号機と3号機で、原子炉格納容器の真上にあるフタの部分が高濃度の放射性物質に汚染されていることがわかった。
周辺の放射線量は、人間が1時間で死にいたるほど高い。炉心で溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)の取り出しについて、原子力規制委員会の更田豊志委員長は「作戦の練り直しが必要になるだろう」と述べた。
1~3号機には800~900トンの燃料デブリがあるとみられる。だが、炉内のどこに、どんな形で残っているのか、いまだに全容をつかめていない。新たに見つかった2、3号機の高濃度汚染で、取り出し作業はいっそう難しくなるだろう。
以前の工程表は「20~25年後に取り出しを終える」としていたが、いまでは年限が消えてしまった。燃料デブリが残ったままでは、建屋や設備の解体と撤去が進まない。冷却用の注水にともなって高濃度の汚染水が生じ続け、それを浄化した処理水もたまっていく。
国と東電の掲げる「30~40年で廃炉完了」は不可能ではないのか、との疑念が膨らむばかりだ。廃炉の終着点が見えないと地元の復興もままなるまい。
原発の事故は地域社会を崩壊させ、再構築にはきわめて長い年月がかかる。この悲劇を繰り返すわけにはいかない。
■安全神話は許されぬ
しかし、7年8カ月にわたった安倍政権をへて、流れは原発回帰へ逆行している。
事故の翌年、討論型世論調査などの国民的な議論をへて、当時の民主党政権は「30年代の原発ゼロ」を打ち出した。だが同じ年の暮れに政権を奪還した自公は、さしたる政策論争もなく原発推進に針を戻してしまう。
古い原発の廃炉などで20基ほど減ったものの、安倍政権の下で総発電量に占める原発の比率は事故前に近い水準が目標とされた。事故後に設けられた「原発の運転は40年」の原則をよそに、20年延長の特例も相次いで認められている。
菅政権はこの路線を継承し、「引き続き最大限活用する」との方針を示している。「原発の依存度を可能な限り低減する」といいつつ、具体策を示さぬまま再稼働を進める。その姿勢は不誠実というほかない。
政府は再稼働にあたり、原発の新規制基準は「世界で最も厳しい」と不安の解消に努めてきた。これが新たな安全神話を醸成していないか気がかりだ。
電力会社の気の緩みも見すごせない。福島の事故の当事者である東電も、原発中枢部への不正入室を許し、重要施設の耐震性不足の報告を怠るなど、安全に対する姿勢に問題がある。
にもかかわらず、産業界を中心に原発への期待は大きい。
「原子力はエネルギー自立に欠かせない」「原発の運転期間を80年に延ばすべきだ」。エネルギー基本計画の改定を議論する経済産業省の審議会では、原発推進論が相次いでいる。事故の痛みを忘れたかのようだ。
破綻(はたん)した核燃料サイクルまでも「推進してほしい」という要望があることに驚く。
使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出しても、高速炉の開発が頓挫したため大量消費は望めない。そんななかで核燃料サイクルを進めたら、原爆の材料にもなりうるプルトニウムの保有量が思うように減らず国際的に批判されよう。
安全神話の上で国と業界がもたれあう。事故前と変わらぬ構図を解消すべきだ。
■再エネの拡大こそ
原子力ばかりに力を注いでいては、再生可能エネルギーや水素を柱とした脱炭素時代の技術革新に乗り遅れてしまう。
地球温暖化を防ぐには、安全で低コストの再エネを広げるのが筋だ。原発利用は再エネが拡大するまでの一時的なものにとどめ、できるだけ早く脱原発のシナリオを固める必要がある。