文法とは何か。外国語を学ぶのに文法って必要なのか。仮に必要だとして、どのレベルの学習者に、どの程度、教える必要があるのか。そんなテーマが一週間前に応用言語学の宿題として与えられた。
バス停でバスを待つ間にメモ書きして、自室に帰って、いきなりイギリス語で書いてみた。それから日本語に訳した私の答えは、以下のようなものになった。イギリス語で書いたわりは、日本語的発想で、論旨に一貫性がみられない。最後の箇所なんか、本当に下手な日本語の散文のようだ。ともかく、これを推敲して、一週間後に提出することになる。全体評価の10%の課題。内容は英語教師向けなので、関心のない方は飛ばして欲しい。英語教師の非主流派を自認している私が考えた答えだから、英語教師にとっても役に立たないかもしれない。内容もさることながら、私の下手なイギリス語を手直ししてくれる友達を探さないといけない。*1
(1)文法とは何か
文法を定義することはむずかしいが、とりわけ構文・統語論という点において、単語や語句や文を結びつける体系的な規則であり、音声と綴りとの関係など、語彙の分野においても、いくつかの規則がみられる。こうした規則一般を文法と呼びたい。
ただし、いかなる規則も、常に、例外というものがある。そのことに注意をしないといけない。
(2)外国語を学ぶのに、文法は必要か
当然、必要であると思う。
(3)もし文法が必要だとして、学習者のどのレベルで、どの程度、文法を教える必要があるか
もちろん、学生の状況、クラス規模、学習者をとりまく言語環境など、多くの条件を考えて、指導方針を考えなければならない。
私にとっての文法は、以下のようなものである。
1.統語論における「文法」
いかなる言語も、固有の文法体系を持っている。非文法的な言語が世界には存在するという主張があるとすれば、それは矛盾した主張である。すべての言語には固有の規則があり、世界に非文法的な言語などあるはずがない。
しかしながら、言語には、いろいろな型(タイプ)があり、これから私が論じようとする統語論の観点から、全ての言語は、いくつかの型(タイプ)のグループに分類することができるということは知っておいていいことだ。日本語は、ウラルアルタイ語に属すると言われているが、日本語は膠着語というタイプに分類され、特に語順など、モンゴル語、朝鮮語に類似しているように思われる。一方、イギリス語は、ドイツ語などに、類似点が見られる言語のタイプであることは言うまでもない。
単語や語句を組み立てる組み立て方、統語論において、日本語とイギリス語は、天と地ほどの差がある。
イギリス語では、「主語」と「述語」に強固な結びつきがあるが、その一方、日本語においては、このような「主語」と「述語」の強固な結びつきは見られない。実際、三上氏*2をはじめとする、著名な学者は、日本語では、「主語」という概念を無視した方がよいと主張しているし、日本語に「主語」らしきものがあると考えると、日本語を分析する際に、それではうまくいかないとすら彼らは言っている。日本語を分析する際には、「主語」という概念を捨て去った方がよいという、彼らのこうした主張に私は基本的に賛成である。
第一に、日本語においては、「主語」につく助詞、「目的語」につく助詞、「副詞」につける助詞というものがあるので、語順というものを気にしない。イギリス語が語順を強固に守っている一方、こうした助詞のおかげで基本的に日本語は語順という点で、自由なのである。前にも触れたように、日本語が「膠着語」と呼ばれるゆえんである。日本語では、助詞がついた一つひとつの語句を、述語「動詞」が、束ねる統語論になっている。私自身、日本語の統語論(シンタックス)を、「逆傘(ぎゃくがさ)」型構造と呼んでいるゆえんである。イギリス語の「主語」と「述語」の関係と同じ様に、日本語の場合は、往々にして後に置かれることの多い「動詞」が、全てを支配し、統合しているように思われる。
同時にまた、すでに述べたシンタックスにおいて、いわゆる「主語」なるものが日本語ではしばしば省略される。優れた日本語の書き手になりたいのであれば、可能な限り主語を省略せよという進言は、大変よいアドバイスになりうるのだ。
このことにこれ以上触れる余裕はないが、次のような別の例を紹介しておこう。
「I love you.」は「私はあなたが好きです」と訳せる。この日本語訳は、文法的に正しいが、私たち日本人は普通こんな風には言わない。「主語」と見える「私は」という最初の部分を無視して、おそらく「あなたが好きです」と言うだろう。いわゆる「主語」というものを無視した表現の方が、日本語では断然自然に聞こえるのである。(ここでの問題は、助詞の「が」が「主語」のように聞こえてしまうが、実際は「目的語」の助詞であることで、混乱を生じさせているように思える) 以上は、単なる一つの例に過ぎないが、日本語を分析しようとする際に、「主語」の概念が役に立たないというのは、少なくともイギリス語の場合と比べてみて、確かなことだと思える。日本のありとあらゆるデパートの一階で、売り子さんたちは、いわゆる「主語」なるものを使わずに、「お客様でしたら」などと、商売をしているのではないか。いわゆる「主語」なるものを使って、「私は」などと言おうものなら、お客さんたちにとって、ちょっと「押しつけがまし」く、聞こえてしまうことだろう。それは売り子さんたちが当然望まないことだ。
同じような意味で、イギリス語を習い初めの日本人学習者たちに、イギリス語には、五文型というものがあるということを教えることは、役に立つかもしれない。おそらく、この五文型理論は、全てのイギリス語の文を分析できるわけではないから、しっかりと完成された理論ではない。しかし、それでも、イギリス語における五文型は日本人学習者にとって役に立つであろう。(以下、五文型の例を紹介したが、ここでは省略する)
言語体験の少ない最初の段階では、「演繹的アプローチ」として、五文型理論は有益である。何故かというと、イギリス語には、「主語」「述語」という強固な結びつきがあり、この固定化されたパターンは、全てのイギリス語の文に当てはまるからである。もちろん、イギリス語においては、副詞句というものが、この「主語」「述語」という強固なセットの前に置かれたり、文の終わりに置かれたりする。あるいは、頻度をあらわす「sometimes(ときどき)」とか、「often(しばしば)」などが、途中にはさまれることもある。しかし、それでも、イギリス語の上級者でなくても、それぞれの文の中で、「主語」と「述語」を探し出すことはそれほどむずかしくはないだろう。
それぞれの文の中に「主語」と「述語」があるというこの規則を、イギリス語はめったに裏切らないのである。もちろん、例外はある。例えば、命令文では、「主語」が省略される。「倒置文」や「疑問文」では、もちろん、主語と述語の位置が逆転したりする。けれども、こうした細かな例外をのぞけば、イギリス語の文には、少なくとも、一つの「主語」(主部)と、少なくとも一つの「述語」(述部)が、「主語」「述語」の順番で、含まれているのである。
これはかなり固定化された規則なので、それぞれの文で、まず「述語」動詞を見つけることができれば、「主語」を見失うことはない。なぜなら、「主語」は、その「動詞」の前に置かれるからである。そして、こうした固定化された規則があるということは、学習者にある程度安心感を与えることができる。きわめて単純な言語的事実を結論的に与えて、実際、自分で試してみなさいと教えることができるので、私はこれを「演繹的アプローチ」と呼んでいる。
五文型理論は、日本人の初級の学習者に幾分か、安心感を与えることだろう。しかし、もちろんそれだけで彼らがその言語に流暢になるということを意味しない。当然にも、彼らはいわゆる言語活動を経験し体験しなければならない。言いかえれば、練習が必要なのである。この点は疑問の余地がない。しかし、「演繹的アプローチ」として、五文型理論は有益だと思う。イギリス語を習得したいのであれば、イギリス語の「SV感覚」を身につけよということだ。
2.語彙における「文法」
いわゆる「語形成」をも「文法」の分野に含めるのなら、語彙の分野においても、「文法」が存在すると言ってもよいかもしれない。「語形成」において、たとえば、un-touch-able, un-reach-able, un-predict-ableの例のように、「接頭辞」「語幹」「接尾辞」なるものがあることはよく知られているが、語彙を形成するにあたっても、いくらかの規則があるからである。
また、意味論、比喩的表現にも、それぞれの単語には「多義性」がみられ、幾分かの規則があると言ってよいかもしれない。「文化的背景」や「歴史的含蓄」や、「もともとの意味」と「派生的意味」「多義的意味」をも、文法に入れるのは、やり過ぎで、的外れな点もあるけれど、こうした分野においても、幾分かの規則があることは否定できない。
英語の教師としては、語彙の「多義性」を充分に知らないといけないし、こうした言語的事実を生徒に教える必要がある。時に、実際の発話行動は、オクシモロン(矛盾語法)に満ちているからだ。よくない語法と考えられているけれど、「最悪」をいい意味で使うということだってある。それが、言語というものなのなのだ。だからこそ、文学を面白いと思えるのだろうし、シェークスピアが面白いのも、そのせいだ。
イギリス語の語彙は、ラテン語、ギリシャ語、そしてドイツ語、フランス語、イタリア語、そして他のたくさんの言語から成っている。ゆえに、一つひとつの単語の歴史がさかのぼることだってできる。例えば、「農業(agriculture)」は、「文化(culture)」と関連しており、「文化(culture)」は、「耕す(cultivate)」という意味から派生している。私が思うに、土壌を「耕す」ことを通じて、われわれは、自分自身の頭脳と心を「耕し」続けてきた。また「労働」を通じて、我々自身を作り上げてきたといえよう。「労働」は、われわれの身体的ならびに精神的能力の両方を作ってきている。同時にまた、「労働」を通じて、労働対象に名前をつけることによって、われわれはモノを区別し、同時にまた、互いに意思疎通することによって、集団で協同しているのである。また、集団で協同する中で、意思疎通の能力をさらに発達させてきている。そして、われわれの「言語活動」を通じ、その結果としての「産物」として、「言語」を確立してきた。こうして我々はこれまで自前の言語を作り上げてきたし、今現在もつくりあげている最中であるし、これからもそうすることだろう。
3.文化と社会における「文法」
「文化における文法」とか、「社会における文法」という学術用語はないと思うが、造語として感心できなくても、こうした現象はあるように思う。
「Do you like coffee?(「コーヒー、お好きですか」)」「Yes, I do.(「はい、好きです」)」「No, I don’t.(「いいえ、好きではありません」)」。こうした肯定疑問文では、イギリス語は日本語と全く同じ発想である。しかし、否定疑問文では、同じにはならない。
「Don’t you like math?(「数学、好きじゃないんですか」)」「English: Yes, I do. (Japanese: No, I do.いいえ、好きです)」 「English: No, I don’t. (Japanese: Yes, I don’t.はい、好きではありません)」。否定疑問文で、なぜ日本人が、“Yes, I don’t”(「はい、好きではありません」)と答えるかというと、否定疑問文の答えは、「はい、(あなたのご推察は正しいです。数学については、)好きではありません」を意味するからだ。(ちなみに、Yes, I don't.は基本的には英語には見られない)逆も同様で、「いいえ、(あなたのご推察は正しくありません。数学については、)好きなんです」。私が思うに、これは日本人の他人に対する態度から来ているように感じられる。私たちの社会は、少なくとも、以前は、「みなが大丈夫だから、私も大丈夫」という他に対する気配り社会であったように思う。今は少しずつかなりの変化がみられるが、昔は、「辛抱」が日本のお家芸だったはずだ。それゆえ、否定疑問文では、質問者に気を使って、反応しないといけないという気になってしまうようだ。ゆえに、この手のものを文化的・社会的文法(規則)と呼んでもさしつかえないかもしれないと私は考える。
コトバを教える教師としては、あまり文化的・社会的文脈に踏み込み過ぎないほうがよいとしばしば指摘されるが、ときには、そうしないといけないのではないかと私は思う。イギリス語の教師として、こうした取るに足らない文化的・社会的現象を教えることができないといけないのではないかと考える。
4.発音と綴りにおける「文法」
綴りと発音の関係については、イギリス語は、整備されていないとよく指摘される。しかし、それでも、いくつか規則はある。それが、「フォニックス」と呼ばれているものである。ゆえに、イギリス語においても、当然、綴りと発音の関係について、規則があると言わなければならない。
「言語」そのものは、「言語活動」の「産物」に他ならない。どんなに上手にその言語を分析しようとも、どんなに文法を知り尽くしても、またどんなに規則を熟知しても、その言語の素晴らしい話し手になれることを直接意味しない。「言語」と「言語活動」の両方に通じたいと思うならば、リスニング、スピーキング、リーディング、ライティングの「言語活動」に身を投じなければならない。よく紹介されるように、その言語に漬かってしまうという「トータルエマージョン」メソッドというのがある。もし、聞けたり、話したりできるようになりたいならば、可能な限り、その言語の流れに身を置かないといけない。「言語活動」においては、「リズム」と「スピード」がなんといっても大切で、そしてこの「リズム」とこの「スピード」についていけるだけの「(言語的な)パワー」がないといけない。そして、このパワーの主たるものは、語彙力と文法力に他ならない。