奥田民生の「FAILBOX」というアルバムの中に「それはなにかとたずねたら」という曲がある。これはなかなかの名曲だ。
きっぱりきめたような
こまりはてたような
そこらのくさのような
まざったにんげん
主題は見ての通り「人間」なのだけれど、第一スタンザ(連)から、何を修飾するのかわからないまま、「〜のような」という叙述的表現が三行続き、ひとまず「まざった人間」で締めくくられる。
この第一連では、「きっぱりきめた」「こまりはてた」「そこらのくさ」と続けて聞くと、「き」「き」「こ」「こ」「く」と、全体的にK音が目立って心地よい。
次の連も同様に展開されて、「まがった人間」と韻を踏んで締めくくられる。
そして次に主題に対する奥田の主観が提示される。
ふくざつなのね
あいまいなのね
だいたいそのね
いくさきがみえん
人間は、複雑なようで単純、善人のようで悪人、理性的なようで理性的でない、合理的なようで不合理。これはまさにシェークスピアが得意とする矛盾語法(oxymoron)に近い。
かみがみさまのような
ちりがみのような
なべつかみのような
まいったにんげん
「かみがみさま」と「ちりがみ」は、対比で使われているのだろうけれど、「なべつかみ」には意外性があって、これにはまさに「まいった」。
そして、また主題についての、主観が提示される。
ここでは「にんげんなので」が立て続けに三行続き、論理が明確にされている。人間なので反省などしないのである、と。
にんげんなので
こうかいなどせんが
もうにんげんなので
もんだいなのね
にんげんなので
はんせいなどいたしません
そもそも、タイトルが「人間とは何かとたずねたら」ではない。「それはなにかとたずねたら」とは、題名からして秀逸ではないか。
ところで、よく知られているように、日本語は子音と母音との組み合わせで音をつくっている。日本語のひらがなもカタカナも、それぞれ音節をあらわす文字だから、例えばマクドナルドは6音節だけれど、イギリス語だと、「ダ(ド)」が強調されて発音されるから、3音節か4音節になる。イメージでいうと、日本語の場合は子音にそれぞれ母音を礼儀正しくつけて平板に発音するのだけれど、イギリス語の場合は、子音の全部には母音を礼儀正しくはつけず、また音節の発音には、ストレス(stress)というものを入れて、いわば強音・弱音が支配しているのである。
それで、例えば、attractionは「ラク」にストレスがおかれ、最後の「シュン」は軽めに発音するのだけれど、これを、日本語で発音したり、カタカナ表記をするとなると、アトラクションというようにやたら長くなって間延びしてしまうわけだ。だから日本語では、テレビジョンがテレビになるような「切り落とし」(clipping)が好きなのだろう。
発話にはリズムというものがあって、イギリス語のように、強勢アクセントによるリズム(stress-timed rhythm)をもつ言語と、日本語のように、各音節に等しく時間間隔が与えられるリズム(syllable-timed rhythm)をもつ言語とがある。これは大雑把な話ではあるけれど、そうした意味では、一般的にいって、イギリス語の方がロックに向く言語と言えるだろう。
だから、ロックの日本語の歌詞は、奥田民生にみられるように、戦略的でなければいけない。例えば、安易にイギリス語やカタカナ語を入れることはやめて、ひとつひとつの日本語の音節を生かすために、コトバを長く書くことはしない。イメージでいうと、情報を詰め込みすぎず、のんびり表現する。日本語の母音を生かして歌うということは最低条件だろう。ユニコーン*1のアルバム「SPRINGMAN」の「与える男」なんかは、こうした点でかなり成功している作品だと思う。
日本語の発音がマオリ語の発音と似ていることはよく知られているし、このことは前にも書いた。日本語の母音がアイウエオだとすれば、マオリ語はアエイオウだ。だから日本語の歌詞を音として気持ちのよい音にしたいのなら、例えばマオリ語の歌を聞くことは示唆に富む作業になるかもしれない。どちらの言語も、伸ばした母音が気持ちいい言語だと思うからだ。