「映画 日本国憲法」を観た

「映画 日本国憲法」

 ジャン=ユンカーマン監督の「映画 日本国憲法 [DVD] ()」を観た。
 冒頭で、ダグラス=ラミス氏が、日本語で、アメリカ合州国では戦争をやるのが常識だが、日本の常識は戦争をしないことなのだと述べていたのがとても印象的だ。憲法九条のおかげで、日本は国家交戦権のもとで、自衛隊は一人の人間も殺したことがないと。主権在民憲法は、これはやっていい、これはやってはいけないと、国民から政府に命令をしているのであって、憲法九条は、憲法の中でも、真ん中に位置しているのであると。
 またあとで、憲法九条を「非現実的」と呼ぶことが多いけれど、20世紀に暴力によって殺した者は誰かといえば、マフィアでもヤクザでもなく、国家に他ならないとラミス氏は喝破していた。2億人もの命を奪ったのは、国家だったと。その意味で、巨大な軍事力は、ちっとも安全ではない。基地が安全をもたらすなんてことはなくて、逆に基地があるからこそ狙われるのだと。これが論理というべきものだろう。
 戦後、憲法案を検討する際に多大な貢献したベアテ=シロタ=ゴードン氏の発言や、日高六郎氏の日本国憲法成立過程における二つの自主憲法の話も極めて興味深い。
 中国の作家・映画監督である班忠義氏の、平頂山事件に関する日本人の無知に対する告発と、神が人類に贈ってくれたとしか思えない宝物としての憲法九条の話も説得力にあふれている。
 ジョン=ダワー氏やチャルマーズ=ジョンソン氏の発言も説得力があり、論理的だ。とくにチャルマーズ=ジョンソン氏のイラク戦争について、アメリカがイスラム社会の怒りを買い、他に例をみない馬鹿げた選択だったという発言や、小泉首相がコッカスパニエル犬であるという発言を否定することができない。
 ノーム=チョムスキー(Noam Chomsky)氏の今日の戦争はあらゆる生命の終焉を意味するという告発。別の言葉でいえば、「万物絶滅」(オムニサイド、Omnicide)を意味するという情勢認識と、国連憲章の意義。世界市民が、それぞれの自国の政府に国連憲章を守るよう要求すべきであると。
 その意味で、これら識者に共通していたことは、日本政府やアメリカ合州国政府と、それぞれの国民を混同視してはならないということだ。
 韓国の韓洪九氏の発言のように、若い世代が歩調をあわせ、平和的な感受性を一緒に育てていくことが重要である。その意味で、これからの日本の若者は、朝鮮語や中国語を学んで、アジアや世界の若者と討論ができるような若者になってもらいたいと切に願う。
今の日本は、アジアの諸国民を眼の前にして、発言をしなければならない。アジアの諸国民を眼の前にしていないから、いい加減で勝手なことを言っていられるのだと思う。
 アジアの若者と日本の若者たちが連帯できるために、そのために、この映画を全ての日本人、とりわけ若者に薦めたいと思う。
 「映画日本国憲法読本」も、フォイルから出版されている。