ニールヤングが、1969年1月に一枚目のソロアルバムNeil Youngを出し、Crazy Horseとの運命的出会いを経て、5月にはソロ二枚目のEverybody Knows This Is Nowhereを出したことは昨日書いた。
8月にはCSNYとしてウッドストックフェスティバルに参加し、1970年1月には評判は芳しくなかったがCSNYとしてロンドン公演も果たした。1970年3月には、今回のCrazy Horseとのフィルモアイーストでのライブ、そしてCSNYとしてのDéjà vuが発売となったことも昨日書いた。
そして、その二ヵ月後、1970年5月4日に、ケント州立大学射殺事件が起こるのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Kent_State_shootings
当時ベトナム戦争への反戦運動が盛んになっていた時期で、この事件はベトナム戦争に抗議していた学生4人が州兵によって射殺されるという痛ましい事件であった。
ブタノ渓谷で雑誌*1の報道記事をデビッドクロスビーに見せられたニールヤングはすぐにギターを手にしてOhioという曲を書き始める。曲は一日で完成した。クロスビーとニールは飛行機でロサンゼルスに行き、スティルスとナッシュとスタジオに入り*2、5月21日にレコードにして、Find the Cost of Freedom*3をカプリングした。その夕方関係者に渡し、その夜飛行機でアトランティックに持っていかれ、一週間後に世に出ることになった。
いくつかのラジオ放送局で放送禁止になったにもかかわらず、このシングルレコードの訴えは民衆に届き、ビルボードの14位に登りつめた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ohio_%281970_song%29
ここで強調すべきことは、もともとニールヤングは、政治的な作風をする方ではないということだ。その点でいえば、デビッドクロスビーの方が政治的な作風かもしれない。デビッドクロスビーは、ニクソン大統領(当時)の名前をOhioという歌詞に入れたニールヤングの勇気を讃え、この曲を高く評価した。デビッドクロスビーが”How many more? Why?”と叫び声をあげ、Ohioのレコーディングが終わった際に涙したというのは有名な話だ。
http://www.thrasherswheat.org/fot/ohio.htm
こうした意味でOhioという曲は時代精神(zeitgeist)によって書かれた歌だとも言えるだろう。時代と切り結ぶシンガーソングライターとしての使命感がこの曲をニールヤングに書かせたと言ってもいいかもしれない。その魂は、当時日本の高校生であった私にも確実に届いていた。
CSNYがOhioをレコーディングした同時期に、CSNYは夏ツアーに出るのだが、これが4 Way Streetという二枚組のアルバムとして発売されるまでには、翌年1971年の4月まで待たなければならなかった。