明日は、衆議院選挙の投開票日。
最大争点のひとつが憲法であることは間違いない。
すなわち、国民主権・基本的人権・平和主義を擁護・発展させる候補者に投票し、壊憲論者に投票してはならない。
もうひとつは、いわゆる裏金議員・統一協会などとかかわりのある候補者は落選させなければならないという、これまた大きな課題があるが、この課題はすでに述べた壊憲論者に投票してはならないという課題に包摂されるだろう。
壊憲論者とは、自公政権とその補完勢力である。
国民主権・基本的人権・平和主義を擁護・発展させる候補者とは、日本共産党・社民党。真の野党とは言えない立民候補者は別にして立憲主義を貫いていると思われる立憲民主党*1。そしてれいわ*2、である。
さて、「生きる権利」・「自由と幸福を追求する権利」と政治との関係。革命権の革命義務の承認と民主主義との関係については、哲学者・芝田進午さんの説明がわかりやすく、説得力がある。
以下、「人間の権利 アメリカ革命と現代」(芝田進午編著)<1977年>より引用する。
なお、掲載にあたっては、勝手ながら、冒頭部分をまずは割愛し、その割愛した冒頭部分についてはあとで掲載させていただいた。
(前略)
…政治というものは、けっして自己目的ではない。それは、すべての人間に「生きる権利」、ついで自由と幸福を追求する権利、その他の権利を保障するという目的のための手段でしかない。政治がそのような手段として機能しなくなったばあいには、人間とそのゆずりわたしえない権利が変更されるのではなくて、逆に政治が変更されなければならない。
このようにして、アメリカ独立宣言は、「生きる権利」から「革命権」をひきだすのであるが、それだけではない。「独立宣言」では、つぎのようにさえ主張されている。
「長期にわたる暴虐と強奪があきらかに一貫した目的をもって、人民を絶対的専制のもとにしたがわせようとする意図をしめすばあいには、そのような政府を打倒して、みずからの将来の安全のために、新しい保障機構をもうけることは、人民の権利であり、また義務でもある。」(ゴチック*3は筆者)
みられるように、人民の権利を専制によって圧倒する意図をもつ政府にたいしては、人民は、それに抵抗し、またそれを変革する権利をもつだけではない。さらに一歩すすめて、抵抗し、変革する義務を負うというのである。アメリカの独立宣言が、権利であるとともに、義務でもあるものとして、専制の政府にたいする抵抗、革命だけをあげているのは重要である。まことに、抵抗権・革命権のみでなく、抵抗義務・革命義務の承認と主張。これこそ、「生きる権利」にはじまる基本的人権の諸形態を最終的に保障する最後の権利であり、またそれらをすべて包摂する最大の義務でもある。そのような制度も思想も、この革命権と革命義務を否定するかぎり、けっして民主主義的でありえず、また基本的人権を尊重するものとはいいえない。革命権と革命義務の承認と主張こそ、アメリカ独立宣言の核心にほかならず、また民主主義ならびに人間の権利尊重の試金石なのである。もし、われわれの周辺に、革命権と革命義務の承認を否定し、これをおそれる人がいるとすれば、その人は、アメリカ独立宣言について、さらに民主主義、人間の権利についてさえ無知であり、無教養であることを告白する人であるにすぎない。以上の文脈にてらしてみて、二〇〇年前のアメリカ革命の原理が、今日もなお不滅の意義をもつことはあきらかである。
「前略」として略した冒頭部分を次に掲載する。
なおこの文章が書かれた時期が、アメリカ革命二〇〇周年を祝った40年以上も前の1976年であることに留意願いたい。
約一ヵ月前の七月四日、われわれは、アメリカ革命二〇〇周年をいわった。二〇〇年前のこの日、“新世界”アメリカは独立し、その革命行動を「独立宣言」のつぎの言葉で正当化したのであった。
「われらは、つぎの真理が自明であると信ずる。すなわち、すべての人間は平等につくられ、造物主によって一定のゆずりわたすことのできない権利をあたえられていること、これらの権利のうちには生命、自由、および幸福の追求がふくまれていること。また、これらの権利を保障するために、人間のあいだに政府が組織されるのであり、これらの政府の正当な権力は統治されるものの同意に由来すること。さらに、どのような形態の政府であっても、これらの目的をそこなうようになるばあいには、いつでも、それを変更ないし廃止し、そして人民にとってその安全と幸福をもっともよくもたらすとみとめられる原理にもとづいて新しい政府を設立し、またそのようにみとめられる形態で政府の権力を組織することが、人民の権利であること。」
「独立宣言」の起草者トマス・ジェファソンが、そのように平等であるすべての人間のゆずりわたしえない権利の筆頭に、「生命」をあげ、しかるのちに自由と幸福を追求する権利、またその他の権利を順序づけたことは重要である。実際、人間にとって、まずなによりも大切なものは「生命」であって、これなしには、他のあらゆる権利、他のあらゆる価値は無であるほかはない。すべての人間は、たった一つしかない人生をまっとうし、有意義に生きる権利をもつ。人間にとっては、まず「生きる権利」が保障されなければならず、それを前提としてのみ自由と幸福を追求し、その他の権利を行使することができる。(後略)
くり返しになるが、芝田さんの原文は、以上掲載した文章の「後略」の箇所に、前掲の文章が続いている。
今回、哲学者・芝田進午さんの文章を勝手に前後を入れ替えて掲載するという恣意的な編集をお許し願いたい。
みなさん、明日は投票に行きましょう。
*1:立憲民主党の野田佳彦氏は、その綱領で「立憲主義を守り」「日本国憲法が掲げる「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を堅持します」」とうたっている立憲民主党の代表であるにもかかわらず、安保法制・消費税・原発などの政策において、自民党寄りとしか言いようのない曖昧な発言を繰り返している。また、先日も、生徒・子どもたちに何の責任もないにもかかわらず、朝鮮学校の無償化問題で「無理して変えることはない」とヘイトとしか言いようのない発言を繰り返した。
*2:今回の選挙戦において、れいわ新選組の対応で、疑問をもたざるをえないおかしな行動が、気づいたところだけで2点あった。ひとつは、結果的に取り下げたが、沖縄1区での再選をめざすオール沖縄候補・あかみね政賢氏にたいする敵対としか言いようのない候補者擁立が当初見られたこと。もうひとつは、大坂5区の共産(「共産」としか述べていないが具体的には宮本岳志候補を指すことになる)にたいする「勝つ気なし」という山本太郎氏による誹謗中傷(TikTok)である。後者の山本氏のTikTokは、外国人を揶揄している点でも大きな問題のある動画であった。
*3:原文では、ゴチックでなく傍点。