1週間の授業を振り返って

amamu1981-10-04

 昨日、1週間の授業がやっと終わった。早く寝たせいか、朝5時に眼を覚ました。月曜日にやること、提出するものがあるので、早めに取りかかることにした。
 文法担当のロッド(仮名)。ロッドは若く、教え方は丁寧。プリントで授業を組み立てる。ロッドの作文授業は、最初は自己紹介が課題だった。次にサンフランシスコでよく行く場所を、形容詞を使って説明せよという課題。知人・見知らぬ人を問わず、人間を一人あげ、同じく形容詞を使って説明しなければならない。ただし、nice、goodなどの一般的な形容詞は不適切という条件つきだ。文法的ミスをなくす為にRewriteを何度も要求される。私の最初の作文は、1週間に3回要求された。でも、ロッドは優しく、丁寧で、教室にgive & takeをつくるのがうまく、生徒中心に、静かに生徒を動かしていく。プリントの使い方、板書がうまく、私としても好きな先生だ。痩せ型、髭、メガネ、車の運転をしない、ラディカルに見える。私が自ら発言しないことにも、気をつかってくれる。
 Reading担当のジム(仮名)は、総スカンをくらっている。発音をpersonalに治してくれない。Vocabulary listがアトランダム。Reading skillが身につかない。教師が予習をしてきていないと、かなり強い調子で批判されていた。これに対して、私は沈黙。
 ドイツ人女性のカトリーナ(仮名)は、ジムについては、次の週の態度・姿勢で再考すると言っていた。これも手厳しい。
 外国語学習に対する情熱では負けないつもりでも、give & takeが身についていない私には、どうしてもこうした知的対決に馴染めない。ロシア人のスターンは「私たち生徒は大金を払っている。教師は大切だ。Prove oneself(証明)できなければ、学校は教師を変えるべきだ」という。こうした論理は頭ではわかるが、身体が言うことをきかない。かくいうスターンは、ドイツ語は学習経験があるが、英語は3ヶ月しかやっていないという。彼の場合、発音を身につけたいという目的がはっきりしている。スターンは非常にわかりやすい英語をべらべら喋る。ロシア人か欧米人かどうかは別にして、欧米人が簡単に日本語をマスターするというのは目的意識がはっきりしているからというのは本当のようだ。私の場合、目的意識が彼ら以上にははっきりしていないような気がする。こうした外国の人を見ていると、知的対決に恐れをなしている自分はつくづくダメだなぁとコンプレックスを感じてしまう。
 Singingの授業の時、ドイツ女性のカトリーナは、私は歌いたくないといい、授業の目的を冷静に聞いていた。こうした彼女の疑問に対して、先生はきちんと答えていた。一方、Singingの授業後、スターンが、この授業が一番発音の勉強になると大喜びだったのは意外だった。私の感想は、先生の歌がうまく、歌詞の背景を説明できる知性がある。扱う歌も、私の好きな歌ばかり。だけれども、みんながこれはいい授業だなんて評価するとは思ってもみなかった。みんなが気に入ったことに、私自身ホッとしたような情けない状況だった。スターンなど、フォークでもロックンロールでも、なんでも歌うと元気であったことが本当に意外だったのだ。
 そんな私のダメさ加減であったが、1週間が終わり、ジュディ(仮名)というコンサルタントとappointmentをとってあったので、会いに行った。これはすでに書いたことだが、ジュディに何か問題ありますかと聞かれたので、「授業について行けない」「まわりの連中がハイレベルで力の差があり過ぎる」「できればセクションを下げて欲しい」、「念のためにscoreを見せてほしい」と頼んだ。「あなたは確か高いはず」と、言われ、マークシートは、100点満点中88点。文法(基本)は、30点中の30点ということだった。スターンも同じく88点。周りのクラスメートの方が得点の高い人が多いが、低くはない。セクション5になると、トップレベルとなって差があり過ぎになってしまうし、また日本人ばかりになってしまう等の理由を言われて、様子をみることにした。
 雑誌Timeの聞き取り、San Francisco Chronicle*1のコラムニスト・ハーブケイン(Herb Caen)*2のreadingが苦痛で、胃が痛い*3と言うと、笑っていた。タイムやHerb Caenは、行間を読まなければダメと言われた。調子の良いときは、Timeを170WPM(words per minute)ぐらいでしか読めない、いつもは読みきれないことも少なくないというと、それはすごいと言われた。このJudiという女性、日本にも来たことがあるそうで、カウンセリングだから当然かもしれないが、自分はまるで子どもで、相手が母親のように感じられた。
 ジュディは、胃痛のことをジムやジュディに直接言いなさいと笑いながらアドバイスしてくれた。私は私で、これで少し安心してしまった。これではまるでおしっこを我慢している小学生みたいだ。もちろん小学生とは違うのだが、なんでも勉強となんでも受け入れる姿勢で、金を払っているんだけれども学ばせて下さいという日本的発想があるような気がする。外国人は全く違う。どうよくなるのか証明せよ、これは時間の無駄。こんなことは自分でできる。もう知っている。金を払っている、何を与えてくれるのかという発想である。音声学の授業内容も、私の場合、大学の学部で音声学の教授から習った範囲で全部知識として知っていたが、自分なりに復習のつもりで楽しんでいた。とくに外国人訛りの話と実際のやりとりが面白く、再認識できたのだが、スターンやドイツ人女性のカトリーナは、あんなことは知っている、退屈で時間の無駄だ。あの時間は共通時間で、セクション1からセクション6まで参加する時間なのだが、エスケイプするから私たちのために授業をしろと要求する。この発想の違い。何でも勉強受け入れ型と、目的志向性の強いgive & takeの発想型か。前者は成り行き任せ。後者は、自分で切り開いていく開拓型。全く違う。これが疲れる原因であろう。私の忍耐型が疲れさせるのだ。
 Herb Caenのコラム、今日、辞書を首っ引きで調べると、わかる。サンフランシスコの街並みの描写で、文体は前にも書いたように朝日新聞天声人語型か。もともと辞書を引かなければ私にはわからないレベルのものなのだ。速読できない、イメージを湧かせると、わかる詩的なものでもある。Judiの言ったアドバイスがわかる気がする。ジュディもニューヨークからサンフランシスコに来たとき、なんだこの記事はと思ったそうだ。ところが今では、毎日一番初めに読むという。つまり、スタイルがあるし、内容がある。今朝、ずっとサンフランシスコクロニクルに取りかかっていたのだが、少し自信を持ち直した。好きな記事を読むなら、私のレベルは辞書ナシで学習したい段階なので、怠けるというよりは学習方法としてあえて学校では辞書なしで過ごそうと思ったのだが、それでかなりきつくなってしまっている。
 日本人でもあり、忍耐型で少し頑張ろうと思う。ここでは、こちらから飲み込む気魂がないとダメだ。それと知的対決を怖れないこと。沈黙を破り、outputにも力を入れないといけない。アメリカ人と話すことを面倒だと思わず、こちらから話しかけるくらいのgutsを持とうと思う。知的対決を怖れずに。ということで、修羅場になりそうだ。
 ジュディのcommunication skillだが、credit cardやnew familyなどのトピックのテキストを読んで、内容を把握し、賛成と反対(pro-con)とに分かれて、いわゆるdebateをやるのだが、これが苦痛である。outputの経験がなく、内容としての弾丸(ammunition)も武器も手持ちになく、西洋の論理構築に慣れていない。つまり武器をもち、それを構築(オルガナイズ)し、相手を知的に説得するやりとり(give & takeのgame)に慣れていないからだ。これでは沈黙せざるをえない。けれど、沈黙して得をすると考えるのは日本人くらいか。
 面と向かって言われているわけではないし、お愛想も言われるのだが、本音では、この日本人の英語教師は、大金を払って何しに来たのかと思っているかもしれない。大学の制度であり、職場からの援助なので、英語集中講座に参加した理由を、”It’s my duty.”とJudiに説明したら、Judiは笑っていた*4。dutyという語彙の使い方が適切でなかったこともあるが、どうやら冗談として受け取ったようだ。「義務」や強制なら、「自由がない」と考えるから、それは冗談にしかならない。私の言いたい、言外の内容は伝わらないのだ。そして沈黙していれば、その後も私の気持ちが伝わるはずもない。わかってくれるだろうという甘えは許されない。
 英語学習で、レコードで発音練習をしたり、クラスで学ぶのはプールの水泳練習のようなもの。本格的な水泳ではない。異文化コミュニケーションを考えると、どうしてもgive & take, outputなくしてはありえない。
 私はテストの点数は良くて、潜在的能力があったとしても、debateの力量というか、英語を使って何をするというのがなく、無目的なので、発音が良くても斬れない。outputも練習したことがないので、しどろもどろだ。彼らは、たとえば、フランス人のニコラの発音はそれほど良くないが、斬れる。
 大学時代のゼミナール活動、サークル活動、あれもdebateだったが、英語でやるのは辛そうだ。
 ざっと読んでざっと理解するという方法論は一時止めて、弾丸を仕入れるために精読もし、辞書を使い、ノートをとり、学校に行かないと、勝負にならない。ロシア人・ドイツ人に負けたくないという意地も利用して、また、クラスの連中の足を引っ張りたくないという日本人の恥意識も利用して、しっかりやるしかない。
 今日は、Paul Simonのコンサートにも行かず、あれこれとりかかった。

*1:San Francisco Chronicleは、サンフランシスコの新聞。http://www.sfchronicle.com/。わたしは1982年3月の帰国後、船便で日本からサンフランシスコクロニクルを購読していた時期がしばらく続いた。インターネットもなかった時代のことである。

*2:http://en.wikipedia.org/wiki/Herb_Caen

*3:私は胃痛持ちではないので、これはあくまでもレトリックで言っている。

*4:後年、”It’s my duty.”と言われれば、笑われても仕方がないと思うようになり、母語話者なら確実に笑うだろうなと思えるようになった。話者と聞き手が、それぞれ違うものを見ているのだ。