「進化しない日本人へ」杉本良夫(1988)を読んだ。
日本の毎日新聞記者であった著者は、休職許可をとりつけて、アメリカはピッツバーグ大学社会学部の助手になる。アメリカで博士論文を書き終えて職探しを始めた頃に、オーストラリアはメルボルンのラトローブ大学から助教授として招かれる。著者自身が「外国すなわちアメリカであった。その点では、私は平均的な日本の青年だったと思う」と書いているように、「アメリカを上目遣いに見」ていたという。
オーストラリアといえば、私も昨年生徒を連れて訪れたことがあるので、オーストラリアに関する個人的興味もある。
だから、私がオーストラリアへ出かけることになったとき、しばらく「都落ち」をするのだという意識があった。知らず知らずのうちに、私の中には国家間の序列意識がすべりこんでいたのだ。それが私のものの見方の自由を奪っていることに、私は南半球で暮しはじめて、やっと気がつくようになった。
世界にはいろいろな社会があり、いろいろな文化があるのだ。なぜ私は日米比較の枠組みの中でしか世界を見ていなかったのだろうか。「アメリカと比べた日本」という図式でしか、比較社会学を考えていなかったのはどうしてだろうか。(p.18-p.19)
外国語イコール英語イコール国際化。この図式が、多くの日本人の頭の中に座りこんでいる。しかし、この図式自体が世界の権力構造の反映であることに気がついている人は少ない。(略)この英語第一主義ののさばり様は大変なもので、ここには国際間の文化的階級構造がもっとも鋭く映し出されている。そういう現実を熟ししながらも、英語が実際には国際間のコミュニケーションの媒体になっていることは当面動かしようもない。英語を体得しないと、英語圏だけでなく、英語圏以外の人たちとも話をできないというのが現実だ。英語を駆使できる能力がないと、海外での意志伝達には障壁が多い。この現実が私の生存中に変化する確率はゼロであろう。
これを私は、英語帝国主義と呼んでみた。(p.24-p.25)
著者は、「アメリカの軍事放送であるFENを聴きふけったり、アメリカの軍服を着たり、アメリカ語のTシャツを身につけたりすることが風俗化している日本の若者文化の深層にあるものは何だろうか」と問うている。
日本を見る眼を、相対化の相対化で、その分、見方を変えていくことができたのであろう。
著者は、「日米類似論」として、「世界一イデオロギー」「ナショナリズム」「弱肉強食」「競争イデオロギー」「働き中毒」「無爵位」「中央メディア」「労働者階級を代表する政党が単独政権をとった経験がない」「社会福祉度の低さ」「大学文化」「スポーツ文化」などをあげている。
さらに日本の男女平等の低さ。戸籍の問題。国籍の問題。自民族中心主義の問題など、「進化しない日本人」として、本書から学ぶ視点は少なくない。