Site 7-Rangiriri*1
ランギリリの闘い*2はすでに紹介したが、流れの関係で再度触れておく。以下の内容も、小冊子’The Waikato War of 1863-64’を参考にして書いている。
1863年11月20日、キャメロン将軍指揮下の部隊が、メレメレからランギリリに向かって行進していたが、ランギリリのマオリの砦が、イギリス軍の南への進攻を妨げていた。
キャメロン将軍は、小型砲艦からの砲撃という応援を受けて、二つの本格的な攻撃を計画していた。すなわち、北からは900名もの強靭な陸軍が攻撃しながら、同時に520名もの兵士がワイカト川の軍艦エイボンと軍艦パイオニアから上陸し、背後から攻撃するというものである。
イギリス軍艦の一隻に白旗がなびいたのに応えて、カーフィアのチーフ、ワイレム=テ=クメテが白旗をなびかせたとき、マオリの砦が陥落するきっかけをイギリス軍に与えてしまった。イギリス軍が和平交渉を望んだとマオリが勘違いして、間違えたのだ。この隙をついて、イギリス軍がマオリの砦に突入した。
しかし、ランギリリの闘いは厳しい戦いだった。イギリス軍側は、二人の将校と35人の兵隊が倒れ、93名が負傷した。このうちの10名は、そうした負傷がもとで死んでいる。
一方、マオリ側は、6名のチーフを含めて41名が死に、182名ものマオリが囚われの身となった。夜に抜け出した約200名のマオリたちも深い負傷を負っていた。
ランギリリの闘いでマオリの砦が陥落したあと、1863年12月2日、イギリス軍の大半が、ランギリリから30キロほど南に下ったナルワヒア(Ngaruawahia)に向かったのである。
*1:訪ねるべき場所として、小冊子では続いてSite 8 –Te Wheoro’s Redoubt, Site 9-Maori War and Early Settlers Cemetery, Site 10-Rangiriri Battle Site Heritage Centreとなっていて、これらは全てランギリリに集中している。
*2:ランギリリの闘いについては、以前の日記http://d.hatena.ne.jp/amamu/20040901を参照のこと。