「(コトバと場所)翻訳できない「わたし」 方言と世間、土地を離れ仮想化」

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以下、朝日新聞デジタル版(2021/1/5 5:00)から。

 「もし僕が訳すとしたら『黒人だって生きている!』というのが近いように思うんだけど、いかがでしょう?」。米文学の翻訳も手がける作家の村上春樹さんは昨年8月、自身のラジオ番組でこう問いかけた。

 米国を中心に「Black Lives Matter(BLM)」が大きなうねりとなり、この言葉をどう日本語に訳すかが話題になった。黒人の命は大切、黒人の命も重要、黒人の命こそ大事――翻訳家の柴田元幸さんは6月、ツイッターに「どれも正しく、どれも物足りない」と書いていた。

 翻訳できない言葉の背後には、何があるのか。作家で言語学者の川添愛さんは、BLMの場合は「そもそも、なぜ黒人の命が大切だと言わねばならないのか」という背景が伝わりにくいと指摘。「言葉には、つかわれた場所や文化といった背景がべったりくっついていて、私たちは言葉をつかうことで自然とそれらを背負うことになる」と話す。

 深層学習(ディープラーニング)をつかった機械翻訳にも限界がある。AI(人工知能)が情報を扱うには、文字も音も画像もすべて電気信号に置き換える必要がある。「場所や文化を踏まえた翻訳をさせるには、それらも電気信号として機械に与えないといけない」

 その上で、「じつはほとんどの言葉が翻訳できないのではないか」と川添さんは言う。たとえば、日本語の一人称は「わたし」や「ぼく」など数多いが、英語には「I(アイ)」の一つだけ。一方で「I」には「I」でしか表現できない平明さがある。

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 基本的な一人称ですら厳密には翻訳ができない。それは、同じ日本語のなかでも言えることだ。

 昨年映画化された若竹千佐子さんの小説『おらおらでひとりいぐも』は、「おら」という東北弁の一人称が重要な意味を持つ。夫に先立たれた70代の主人公「桃子さん」は、いつしか脳内に東北弁の話し声を聞くようになる。故郷を離れて半世紀、いまさらどうして? 声は答える。

 〈東北弁とは最古層のおらそのものである〉〈わたしが、と呼びかければ体裁のいい、着飾った上っ面のおらが出てくる〉

 土地の言葉である方言は、近代に標準語へと置き換えられようとした。だが、1980年代に入ると地域性や個性の面から見直され、さらにネットや携帯電話による「打ち言葉」の普及で、自分の出身地ではない地域の方言をつかう「ニセ方言」も浸透。方言に詳しい日本大学の田中ゆかり教授(社会言語学)は「標準語はタテマエの言葉で、方言はホンネの言葉」。その二重構造は、ニセ方言であっても変わらない。

 NHKの朝ドラ「あまちゃん」(2013年)では、東京生まれで岩手県の方言をつかうヒロインが人気を呼んだ。田中さんはバーチャル化した方言が土地から解き放たれ、「らしさ」が共有されたからだとみる。「言葉の意味を伝えるのと同時に、私たちは感情の運び方にも心を砕く。方言を取捨選択することが、ほんとうらしい自分を表現するための手段になったのでしょう」

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 同じく場所を離れてバーチャル化した言葉に「世間」がある。隣近所に白い目で見られる――という感覚の「世間」は、本来は具体的な場所に根ざした言葉だった。

 九州工業大学佐藤直樹名誉教授(世間学)によると、明治期に西洋から「社会」が導入されても日本では世間的な人間関係が土台として残り、90年代後半からは仮想的な概念に。「世間はバーチャル化したことで、いっそう同調圧力を生むようになった」と話す。それが、コロナ禍でなお鮮明に。営業するパチンコ店の店名公表や、「夜の街」「自粛警察」といった言葉の背後にも、私たちをしばる「世間の目」がある。

 「そと」の世間が息苦しくなればなるほど、「うち」の家族は結びつきを強める。昨年末、アニメ映画版の興行収入が歴代最高に達したマンガ「鬼滅の刃(やいば)」も、兄妹の絆や家族愛を強く印象に残した。

 昨年、21歳の最年少で三島由紀夫賞を受賞した宇佐見りんさんの小説『かか』は、人一倍親密な家族への愛憎を、家族内でつかう〈似非(えせ)関西弁だか九州弁のような〉ニセ方言で描く。「うーちゃん」という一人称で語る主人公の少女は、肌に感じる痛みまで共有するような「かか」=母親と横浜で暮らす。かかは父の浮気と離婚を機に精神を病み、不安や息苦しさが少女をもむしばむ。

 宇佐見さんは本作を自らの家族内言語で書いたと明かし、「一般的な言語では深掘りできない部分を感じて。一人称を変えたら、いきなり物語が引きずり出された」と振り返った。

 翻訳できない「わたし」の言葉が、私たちの内には眠る。(山崎聡)