以下、1970年に出版された本多勝一著「アメリカ合州国」(朝日新聞社)のp.181~p.186「黒は美しい」から。
ひとつの民族が、抑圧され、差別され、植民地化され、ドレイ化されてゆく過程の中で、恐らく最後を飾るのは、美意識の奴隷化に象徴される精神のドレイ化であろう。かつてカナダの北極圏にエスキモーの小部落を訪ねたとき、地理的な意味では完全に侵略され、占領されつくしたはずのこの民族が、「美女」の定義に示された美意識においては、まだほとんど隷属化がすすんでいないことを知った(拙著『極限の民族』参照)。この意味では、むしろ日本人の場合の方が植民地化すすんでいる。新聞に出るデパートの広告の、写真ではなく絵の場合、人間の顔はほとんど必ずヨーロッパ系であり、少年雑誌のマンガの主人公は、ヨーロッパに傾斜した混血じみた顔がステレオタイプとなっている。「彫りが深い」顔は平面的な顔より「高級」で「美的」なことを意味することになってしまったのは、いつからだろうか。最近は「毛深い」ことも「良いこと」になったようだから、アイヌは苦笑しているであろう。よく指摘されるように、「日本人ばなれ」という表現は褒め言葉であって、それは即ち「外国人に近い」ことを意味し、外国人とは即ちガイジン(外人)であって、決して朝鮮人やベトナム人、つまり日本人と近縁のアジア人は意味せず、ヨーロッパ人およびアメリカの中での白人のみを意味する。
アメリカの黒人は、むろんこの点でも徹底的にドレイ化されていた。アメリカ合州国という社会が、その建国・富国の歴史はもちろん、すべての機構、制度、価値観において、黒人のためにではなく、白人(正確には一部の白人)のために都合よくできていることを知り、目醒めたとき、かれらはこの美意識の転覆作業にまで思い到った。
「黒は美しい」(Black is beautiful.)
という言葉に象徴されたこの作業は、ある意味では黒豹党員たちがモットーとしている「すべての権力を人民に」(All power to the people.)以上にラディカルな運動かもしれない。かつては、黒人に対して「黒」(black)と呼べば侮辱であり、「色のついた人」(coloured)と呼べば鄭重なのであった。思えばこのほうがはるかに本質的に侮辱的なのだが、精神までドレイ化されている間は、それに気付かぬか、気付いても「気付いたぞ!」と叫ぶことができないのだ。アイヌ(「人間」の意)は現在もこの段階にある(あらせられている)ので、「アイヌ」と呼ばれることを極度に嫌う。
黒人たちのこの作業の一例として、ある黒人女性が黒人の子供のために最近出版した「黒は美しい」という写真文集を紹介しよう。アン・マックガヴァンというその著者がこの本の刊行を思い立ったのは、キング牧師暗殺の翌日、ニューヨークのセントラル公園で自然発生的に行なわれた追悼集会に臨んでいたときであった。
著作権・版権の問題があるため、長くもないこの本の文章を全部紹介することはできないが、まず「黒は美しい」とゴチックで大書されたトビラの反対ページには、黒いアゲハ蝶が花にとまっている写真がある。
本文は、最初の見開きの左ページに、
黒は美しい
朝です 黒い小鳥が歌っています
と書かれ、右ページいっぱいにその写真が出ている。公園か森の木の梢にとまっている小鳥は、メジロ科かと思われるスタイルで、全身まっ黒だ。次もやはり見開きで、左ページに、
お池を静かに泳いでいるのは
黒鳥(ブラック・スワン)です
お池のむこうの草かげには
黒いコオロギがかくれています
黒は美しい
と書かれ、やはり右ページにその写真が出ている。こうして世の中の「黒の美」がいろいろ紹介される。走り去った黒い列車。黒い菓子玉。空をふちどる黒い山かげ。まっ黒な夜空にきらめく稲妻。嵐の日の黒い雲。I love you.と書かれた黒い字の恋文。風雨の中を自由に走る黒馬。黒い貝。黒い石。肥沃な国土に咲くバラ。新しい舗装道路の黒いタール・・・・・・。ホタルのところには、
夜の黒い空のもとであればこそ
ホタルも美しく目立つのです
と説明する。最後は子供たちの群像にそれぞれついている黒い影法師をうたっているが、その前のページが、幼女が鏡をみている写真で、黒い顔そのものが現れるーーー
人目につかない階段の上で
(鏡をのぞくおしゃれな少女の服の)
黒いすかし模様(レース)
黒い顔(フェース)
黒は美しい
(注)Black Is Beautiful------by Ann McGovern (text) and Hope H. Wurmfeld (photographs). New York: Four Winds Press, 1969.
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