梅棹忠夫「21世紀の人類像をさぐる」を読んだ

「21世紀の人類像をさぐる」(1989)

 梅棹忠夫「21世紀の人類像をさぐる」(講談社)を読んだ。

 たとえば「あらたなるバベルの塔の時代」で「じつにいろいろな言語がある」という箇所では…。

語順でいっても、たとえば英語などは主語、述語、目的語の順になっていますが、日本語は主語、目的語、述語となる。日本語を基準にしてかんがえると、まったく正反対の順序をとる言語もあります。いきなり動詞がでて、それから目的語がでて、最後に主語がある。それでもちゃんとした言語です。それはそういう言語だからしかたがないのです。ひとつひとつみてみると、奇想天外なのがあります。そういうものは、そういう言語はまちがっているのだとはいえないのです。全部がただしい。(p.71)

 ある民族にとってある言語を習得するのはひじょうに困難であるということがあります。たとえば日本人にとって、英語の習得というのは至難の業です。日本語と英語とは、構造的にも、語彙的にもまったくちがう言語なのです。そのどちらもが合理的だといっても、しょせん仕かたがない。言語というものはもともと不合理なものです。(p,83)

 大言語主義、さきほどもうしましたような、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、中国語というような、大言語によって、人類の相互のコミュニケーションをすすめていこうというかんがえかたは、一種の大言語主義と名づけていいかとおもいますが、これは現状において、やむをえない手段、方法ではありますが、いかにも姑息なるやりかたです。

 なぜかといいますと、大言語主義をとるかぎり、かならず差別をともなうからです。ひとつの国語をほかの民族に力によるか、力によらないかは別として、要するに結果的にその使用をおしつけざるをえない。そうした場合どういうことになるか。これは言語的帝国主義ということになります。ひとつの言語をちがう人たちに強制したとき、その言語を母語とするひとは得をするにきまっています。おしつけられた側はかならず損をする。ということは、同時に、その言語による差別が発生するということなのです。その言語を母語としてそだったひとは、絶対有利な立場になる。それ以外のひとは絶対損な立場におかれる。そういう差別がおこる。しかもその差別は個人の責任ではないわけです。英語国民にうまれなかったから、英語習得にひじょうに苦労するという現象がある。これは、自分自身に責任がないことですから、人種差別にちかいということです。

 ひとは成長する途中で自分は何語をえらぼうかときめてやったわけではない。母語はうまれながらにしてはじめからきまっているわけですから、これは、選択の余地のないことで、どうしようもないことだ。それにひとつの方向をおしつけていくということは、これはたいへんな問題があるわけです。特定のひとが有利になるような言語をおしつけられるようなら、バベルの塔のほうがまだましだということです。ぜんぶ、おたがいに通じなくても、それぞれ勝手なことをやっていればいいんだということです。だからこの差別問題を克服しないかぎり、人類の言語問題というものはいっさい解決しないということです。(p.84-p.85)

 「博物館の言語ポリシー」では…。

 梅棹忠夫氏がはたらいている国立民族学博物館は日本国民のための施設なので、全館の展示の説明は日本語だけという言語ポリシーをもっている*1。ところが、なぜ英語を書かないのかと憤慨して文句を言ってくる人がいるそうだ。「それはみんな日本人です」という。ここは笑うところですね。

 梅棹忠夫氏の話はおもしろい。