入管法が、自民・公明・維新・国民らの強行採決によって、改悪された。
今回の改悪は、難民申請の回数を原則2回に制限することにより申請の繰り返しによる滞在を排除し強制送還・国外退去がしやすくなったこと、そして強制退去までの期間、対象となる外国人を収容する代わりに、「監理人」に監視させる「監理措置制度」を設けることだ。後者は、恣意的拘禁の解決になるものでなく、入管庁の監督権限をある意味「委譲」されるかたちで、支援者・協力者に、管理する側と管理される側という支配・被支配の関係をもちこむことになる。
スリランカのウィシュマ・サンダマリさん死亡事件により、入管法改悪に関心をもつ人々は増えてきたとはいえ、一部のメディア(「報道特集」など)を別にすれば、メディアの関心も低く報道も少なく、国民の関心は高まることなく、その結果として、静観している日本人が多いと言わざるをえない。
日本社会は、島国根性が根強く、単一民族ではないにもかかわらず、単一民族神話がまことしやかに信じられ、外国人の存在は、見えない(invisible)存在になっている傾向が強い。すでに20年近くも前に、「日本人は、多かれ少なかれ、「外国人嫌い」(‘xenophobia’) か、「外国人好き」( ‘xenophilia’ )という二つの症状を呈している。ヨーロッパ系白人に対してはゼノフィリアで、それ以外の人間に対してはゼノフォビアという基本傾向」があると、書いたことがある*1。
そうした日本的状況の中で、今回、入管法の改悪がおこなわれた。
今回の入管法改悪は、民主主義、法治主義、人権擁護、共生社会、国際主義、権力の濫用と暴力性、多文化主義、(思いつくまま並べてみただけだが)どれひとつとってみても、日本の後進性が露呈されている。
以下、東洋経済から。フランスの日刊紙ル・フィガロ東京特派員のレジス・アルノー氏。
この記事にあるように、「過剰に官僚化した法務省は、基本的に移民受け入れに反対しており、完全な無責任と不透明さで移民を管理している」(阿部明治学院大教授)ことが、一般国民に十分知らされず、一般国民は、「無関心」「静観」のまま放置されている状態だ。
けれども、これは移民だけの問題と思うのは危うい。
問題になっている入管の暴力の実態、人権侵害の実態は、言葉にならない恐ろしいものがある*2。
命の問題に眼をつぶるものは、みずからの運命にも眼をつぶるものだ。
*1:CALLで提出した最終レポート - amamuの日記で、「私の観察では、日本人は、多かれ少なかれ、「外国人嫌い」(‘xenophobia’) か、「外国人好き」( ‘xenophilia’ )という二つの症状を呈している。ヨーロッパ系白人に対してはゼノフィリアで、それ以外の人間に対してはゼノフォビアという基本傾向を除けば、これは元来日本人が人種差別主義者であるということではなくて、国内で外国人に出会うことが極端に少なく、単に慣れていないために、その無邪気さが原因で生じている症状ではないかと思う。差別意識であることに変わりはないが、いずれにせよ、日本人は、このゼノフォビアとゼノフィリアから自由になることが大切だ」と書いたが、「元来、日本人が人種差別主義者であるということではなくて、国内で外国人に出会うことが極端に少なく、単に慣れていないために、その無邪気さが原因で生じている症状」という箇所は認識が甘く残念ながら今日訂正が必要になっている。
*2:仁比聡平議員(日本共産党)は「入管行政の源流には、戦前の植民地支配、戦後の在日朝鮮人の排斥の歴史があるとして「差別と排斥の歴史を終わらせ、保護と共生へ」と呼びかけ」た。