壊憲勢力2/3となる、自公政権、同じく補完勢力に票を投じてはなりません

 アメリカ合州国で銃による暴力(gun violence)が止まらない。今年に入って犠牲者数はすでに8千人を越えている。
   すでに2年前、アメリカ合州国の幼児・子ども・10代の死亡理由は、それまで一位であった交通事故を越え、銃による死亡(殺人)が一位となっている(2020年)。
    合州国では一人あたり1.2丁も銃を所持し、銃規制は困難を極めているが、銃を廃棄しない限り、市民の安全・安心を得ることは不可能だろう。

 銃の購入者が21歳未満の場合は犯罪履歴やメンタル面などの審査を厳格化することや、著しく危険とみなされた人物から銃を没収できるように州政府を財政面で支援することなどが含まれている銃規制を強化する法案が上下院で可決され、これにバイデン大統領が署名し(6月25日)、法律が成立した。
 銃規制の法律が成立したのは28年ぶりのことで、バイデン大統領は署名にあたって「きょうは記念すべき日だ。この法律で命が救われることになる」と述べ、その意義を強調したが、私見では、その意義は極めて限定的と考えていた。アメリカ独立記念日、法律成立後まもなくの7月4日、再度殺傷事件が起きてしまった*1 *2

米独立記念日パレード銃乱射、容疑者を殺人容疑で訴追 2歳男児の両親ら犠牲 - BBCニュース

 銃を撤廃しない限り、すなわち銃規制を完璧に徹底しない限り、不幸な殺傷事件は続くだろう。

    同様に、わが国の政権与党は日米軍事同盟を土台にしてアメリカの言いなり。ウクライナ情勢も利用して、財源もない中、消費税増税を当て込んで、防衛費を2倍にしてしまいました。そもそも軍隊は国民を守る存在という考え方自体がめくらましの理屈だが、軍隊と兵器による衝突がエスカレートしたら、国民の命を守ることは期待できるのだろうか。

     あの侵略戦争を猛省して戦後日本は憲法9条を策定した。その崇高な理念は政権与党によってボロボロにされてきたが、先日、中村哲さん・サーロ節子さんのそれぞれの生き方をテーマにしたドキュメンタリー映画「荒野に希望の灯をともす」と「ヒロシマへの誓い」を見て、あらためて日本国憲法が本来もっている平和主義の輝きを実感した。やはり軍拡より平和外交、核兵器禁止条約(TPNW)への積極的参加、原発廃棄だろう。
   政権与党は選挙後に憲法改悪(壊憲)を画策しているが、これを許してはならない。

   いま「米軍の新型中距離ミサイルの日本への配備計画」によって沖縄だけでなく日本全土にミサイルを配備しようとする中、「専守防衛」を捨て「敵基地攻撃能力の保有」に踏み込むことは、日本本土がアメリカの戦争に巻き込まれ、戦場となる、危険きわまりない道である。こうした危険な政策が自己本位の政治家によって進行されている。基本的人権の根幹をなす生存権、生きる権利を擁護するために、戦争を避けるための対話、積極的平和外交がいまほど求められているときはない。なんとしても平和を求める対話が重要であり、このことを強調しても強調しすぎることはないだろう。

 改憲勢力2/3の誕生は、ふたたび、殺し・殺される戦争容認の道に突入することになる。壊憲勢力2/3となる、自公政権、同じく補完勢力に票を投じてはならない。

*1:シカゴ近郊で、7人死亡。30人以上のけが人と報じられている。

*2:銃撃事件が急増しているアメリカ・ニューヨークで6日、州知事が国内で初めて銃暴力に関する非常事態を宣言しました。

 ニューヨーク州のクオモ知事は、4日の独立記念日を挟む3連休に州内で51人が銃で撃たれ、新型コロナウイルスによる死者数13人を大きく上回ったことを明らかにしました。

 その上で、「私たちはひとつの病から銃暴力という次の病に移行した」と述べ、国内初となる「銃暴力に関する非常事態」を宣言しました。

 新型コロナウイルス対策で培ったノウハウを銃暴力対策にも生かすとしていて、予防のための新たな部署の設立や、他の州からの銃の流入を防ぐ対策の強化などに総額1億3800万ドル、日本円で153億円近くを投じる予定です。米・NY 国内初の銃暴力“非常事態宣言”(日本テレビ系(NNN)) - Yahoo!ニュース

日本の教育と市民的権利を守るためには、自公政権と、その補完勢力に票を投じることはできません

 参議院選挙投票日を前にして、自民党の暴言が止まらない。
 高市早苗政務調査会長による「消費税は社会保障に限定されている」というデタラメデマ発言。
 麻生太郎副総裁による「弱い子がいじめられる。強いやつはいじめられない。国も同じ」という弱肉強食社会容認発言。
 茂木敏允幹事長の「消費税減税なら年金3割カット」という脅し。

 先日、「教育と愛国」という映画を観た。

youtu.be


 その冒頭で、検定を通った道徳教科書からの発問が紹介されていた。
 次の中から正しいものを選べという唖然とさせられる問題。
①    お辞儀をしながら「おはようございます」と言う。
②    まず「おはようございます」と言ってお辞儀をする。
③    お辞儀をしてから「おはようございます」と言う。
 この設問の正解は②の「語先後礼」のあいさつだという。
 こうした呆れる「道徳」が教育現場で、しかも「教科教育」として、まじめにとりあげられている。
 いま、日本の教育はどうなっているのか。ふたたび非科学的な道徳観念を拡散して暗黒政治の歴史に戻そうとするのか。

 映画「教育と愛国」の実態は教師にとってはよく知られるところだが、一般には、あまり知られていないのではないか。
 さて参議院選挙について、テレビなどマスコミはほとんど報道をしない。参議院選挙直前だというのに、モノ言えば唇寒し的なこの静けさはなんだろう。
 ふつうでない状態がふつうになっている空気感…。
 なにかおかしくないか。
 これも、この間、安倍晋三元首相をはじめとする壊憲勢力によるマスコミ支配がすすみ、国民の知る権利を奪われてきたからだろう。
 安倍晋三元首相がウソを連発すること。ほとんどウソしかつかないこと、安倍元首相がかけ声だけということはよく知られている。先日も桜の会前夜祭で、あらたなウソが明らかになった。道徳教科書で、ウソはいけないと教えるのに。これは全く笑えないジョークだ。
 安倍元首相・菅元首相につながる現政権は、政治的・市民的権利を抑圧することに熱心で、政治的・市民的権利の擁護に関心を示すことはない。学問・思想・芸術・良心・信教の自由の権利。政治活動の自由、請願する権利、集会、デモ、結社、表現・出版の自由、政党支持の自由の権利、通信の秘密を保持する権利、プライバシーの権利、法のもとでの平等と自由、身体の自由を束縛されない権利、黙秘権、公正な裁判を受ける権利、批判・反批判・討論の自由の権利に、冷淡どころか、きわめて抑圧的・攻撃的である。

 そうそう。自民党の暴言紹介で忘れていた。
 山際大志郎大臣の「野党の話は何一つ聞かない」という近代民主主義を根本から否定する暴言。結局、国民の声など聞かないということなのだろう。山際大臣はこの暴言を撤回はしていない。

 自公政権は、進歩的か反動的かと問えば、まさに反動的長期腐敗政権と言わざるをえない。まず自民党は、選択的夫婦別姓同性婚に反対だ。また性的少数者(LGBTQ)理解にも消極的。国民的要求とはまるでずれている。資質も問題だ。細田博之衆議院議長の「うちに来ないか」という一連のセクハラ疑惑。吉川元自民党議員の18歳女子大生に4万円渡して飲酒後ホテル滞在など、破廉恥な不祥事も少なくない。

 道徳を口にすらできない倫理的にも恥ずかしい人たちが道徳を口にして、先に紹介したようなどうでもよい下らない教科書内容を子どもたちにおしつけ説教をしているというのが政権与党がつくりあげた今日の日本の教育だ。
 自民党の政治基盤は脆弱化し、すでに公明党を抱き込まないと政権維持ができないところまで来ている。それと、おそらく官房機密費などもふくめ、政権維持のためのカネをふんだんに使う。参政党やその他よくわからない候補者も多数立候補しているが、これも政権にとって好都合なのだろう。
 こうした政治家の関心事は、国民の暮らしではなく、政権維持のため、国民を支配することである。もっといえば国民をいかにだますかに関心がある。教育をイデオロギー注入の道具に変えようとするのもさもありなんというべきだ。
 そうそう。あまりに多すぎて、もうひとつ暴言を忘れていた。

 森喜朗元首相の「(選挙に関心のない有権者は)寝てしまってくれればいい」(2000年)を思い出させてくれる麻生太郎副総裁による「政治に関心を持たなくても生きていけるというのは良い国です」発言。野党共闘によほど恐怖を感じたに違いない。
 自らを激しく批判していた人たちに対して敵・味方に分断するように、「こんな人たちに負けるわけにはいかないんです」(2017年)と街頭演説で叫んだ安倍元首相。これらは、結局のところ、みずからに対する批判意見に耳を傾けないどころか、弾圧し、民主主義社会を破壊し、独裁への道が最善と考えているからに他ならない。
 教育を守り育て発展させるために、そして市民の権利を擁護し、発展させるために、こうした自公政権、そしてその補完勢力である維新・国民民主に、票を投じてはならないことは明白だ。
 教育を守り、市民的権利を守るには、共産党を軸に、社民党・れいわ・立憲民主など、憲法を遵守する政党に投票すべきであろう。
 壊憲勢力2/3の誕生は、国民主権がさらにないがしろにされ、国民が、さまざまな人権の抑圧された暗黒政治の道にふたたび落とし込められることにほかならない。

有権者は参院選の投票に行こう

 すでに期日前投票を済まされた有権者も少なくないと思われるが、今週、参議院選挙の投票日となる。

 これまで何度か紹介しているが、哲学者・芝田進午氏はアメリカ独立宣言の意義、アメリカ革命の意義について、氏の著作「人間の権利 アメリカ革命と現代」の中で以下のように書いている。

  ...政治というものは、けっして自己目的ではない。それは、すべての人間に「生きる権利」、ついで自由と幸福を追求する権利、その他の権利を保障するという目的のための手段でしかない。政治がそのような手段として機能しなくなったばあいには、人間とそのゆずりわたしえない権利が変更されるのではなくて、逆に政治が変更されなければならない。
 このようにして、アメリカ独立宣言は、「生きる権利」から「革命権」をひきだすのであるが、それだけではない。「独立宣言」では、つぎのようにさえ主張されている。
 「長期にわたる暴虐と強奪があきらかに一貫した目的をもって、人民を絶対的専制のもとにしたがわせようとする意図をしめすばあいには、そのような政府を打倒して、みずからの将来の安全のために、新しい保障機構をもうけることは、人民の権利でありまた義務でもある。」(ゴチック*1は筆者)

 

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芝田進午「人間の権利」

 戦争をやめて、暮らしに安心・安全と希望をもてるようにするには、現政権に退場を願うほかない。

*1:原文では、ゴチックでなく傍点。

大谷翔平、一試合8打点(自己ベスト)の翌日に一試合13奪三振(自己ベスト)という歴史的快挙

 昨年アメリカンリーグのMVPに輝いた大谷翔平選手。

 今シーズンもその活躍は続いているが、今週、連日二日間で、8打点を果たした翌日に先発投手として13奪三振を実現という快挙を果たし、またMLBのあらたな歴史をつくった。

 二日間の試合とは、次のとおり。

 ・火曜日(日本、水曜日) 12対11、対ロイヤルズ戦で、エンゼルス負け

 ・木曜日(日本、水曜日) 5対0、対ロイヤルズ戦で、エンゼルス勝ち

 

 大谷翔平選手のこの快挙を各紙が伝えている。

 以下は、その中のいくつかの記事。

大谷翔平、新伝説「8打点&13奪三振」 ルースのキャリアハイ「7打点&11奪三振」2日で上回る (msn.com)

「果たして本物の人間なのか?」大谷翔平の歴史的2日間を米メディアが過去の選手と徹底比較 (msn.com)

 大リーガ―で活躍するジャスティン・バーランダー投手の弟で野球解説を手がけ大谷翔平選手の大ファンでもあるベン・バーランダー氏も当然のことながら「大谷の信じられない二つのパフォーマンス」(Ohtani’s Unbelievable Performances)と熱くYouTubeで伝えている。

EMERGENCY reaction to Shohei Ohtani's (大谷翔平) back-to-back historic performances | Flippin' Bats - YouTube

 火曜日(日本、水曜日)は、スリーランホームラン2本。8打点(自己ベスト)。4打席3安打。

 水曜日(日本、木曜日)は、先発投手として、8回を投げ、2本ヒットを許したが、13奪三振(自己ベスト)。

・Tuesday night two three-run homers, 8 RBIs (career high),  3 for 4 in the game

・Wednesday night the starting pitcher, 8 innings, two hits, 13 strikeouts (career high)

 大谷翔平ベーブ・ルースとよく比較されるが*1、ベン・バーランダー氏によれば、大谷はベーブ・ルースを越えている。ベーブ・ルースであっても1試合7打点が最高だ。

 8打点 ・13 奪三振という記録もすごいが、それを連日二日間で打ち立てたという大谷翔平の歴史的快挙だと強調している。

 以下、ニューヨークメッツのショー・ウォルター監督の大谷評も水準が高いと思う。

メッツのショーウォルター監督に大谷翔平選手についてのインタビューの映像 - YouTube

 ところでベン・バーランダー氏のYouTubeの中で、"back to back games", "back to back nights"と繰り返し言っているのは、MLBではよくつかわれる「連続」という表現で、「連続試合」「連続の夜(ナイト)」という意味だ。

 大谷翔平選手の活躍を観戦しているが、MLBは、英語学習の素材としても面白い。

 これまで、この"back to back"をはじめとして、"first pitch""homer""shot""scorer's decision""no hitter""insurance""has it""jam""on""go down""pick up the win""unicorn""dominant""career high""Bo Jackson""that's the ball game!"などの語句についてツイートしてきたが、これはあらたに野球用語を知るということもあるけれど、英語の基礎語がどのように使われているのかということも大変おもしろいと感じている。

 わたしの英語は学校で習ったものだから自分の書いている英語は母語話者ではないため完璧ではないし、単純なタイプミスも少なくないと思うが、自分の学習メモ代わりとして語彙(words and phrases)についてツイートしている。

 英語学習で関心のある方には少しであれば役に立つかもしれない。

 以下も、大谷翔平の二日間の偉業をたたえるYouTube

今夜も大谷祭りだ!歴史的快挙に球場がショーヘイに酔いしれる!キャリアハイ13奪三振!8回無失点!もう大谷しか勝たん!!(2022年6月23日エンゼルス対ロイヤルズ試合後の現地の反応) - Bing video

 

*1:ベーブ・ルース大谷翔平選手はよく比較されるが、当時と現在では野球環境が大きく違っていて、比較は簡単ではないし、比較自体意味がないともいわれている。

利権的・売国奴的・差別的、なにより教育的でない都立高校入試へのスピーキングテスト導入の中止を求めます

〇都立高校入試に英語スピーキングテストが導入される

 2022年度から約8万人の東京都立高校受験生に対して都立高入試に英語スピーキングテストが導入されるという。事業主体は都教委。運営主体はベネッセ。試験監督は外部人材。採点はフィリピンでおこなうという。かつて都立高校を受験し都立高校で英語を学んだ者として、そしてその後、私大付属高校の英語教師として長年英語教育にかかわってきた者として、このようなひどい教育政策がいま都立高校に導入されようとしていることに驚きを禁じえない。

〇これからの時代はスピーキングも必要だろうという単純な議論では済まされない

 これまでの読み書きの英語教育に、まずリスニング、そして今やスピーキングを導入するのは、グローバル時代の趨勢ではないのかと、素直な受け入れ意見が少なくないようだが、今回の問題は、そんな素直な受け入れで済ますことはできない。

 以下、思いつくまま、反対意見を述べたい。

〇教育とは、評価とは、スピーキング評価の公開性(正確さと公平性)

 前置きが長くて申し訳ないが、まず、教育とは、評価とは。

 「教育者自身が教育されなければならない」という有名なテーゼがある。教育者というものは評価され続けて完成されるはずもないから、教育に従事する者の覚悟として、教師自身が教育され教師として成長し続けなければならない。
 これは評価も同じで、評価する者がまず評価されなければならない。一般に、試験は生徒を試すものと思われているが、実は教師が試されている。どの程度の試験問題をつくるかで、教師の能力が問われているということだ。「最近接発達領域」といわれる課題設定は、生徒が少しだけ背伸びする水準に目標を設定して、生徒をそこまで引き上げたいということだ。そして試験は、難しい試験を作成すればよいというものではない。易しい問題作成であれば、生徒を甘やかしている、小馬鹿にしているということにもなる。「すべての生徒が100点を」(加藤文三/1977年)という教育実践があったが、少しだけ背伸びする水準にすべての子どもを到達させるというのが教育のひとつの理想である。
 5段階評価や100点評価など、古典的評価形態が点数評価だ。点数評価はいわばデジタル。単純だが、荒い。弊害もある。一方、記述評価はアナログ。評価者のコミュニケーション能力が問われる。教師による公表評価も重要だが、公表されることのない生徒の自己評価も軽んじることはできない。教師による評価など当てに(依存)しない自己評価のしっかりした生徒も少なくないからだ。
 その他、いろいろな評価形式があるけれど、そもそも、その評価者に評価させてよいのか。評価者自身の評価が必要だというのは、基本の基だろう。
 教師は日々生徒を評価していると言われるが、教師も生徒から日々評価されていることを忘れてはならない。

 さて、ようやく入学試験の問題に移る。
 入学試験の採点が、正確さと公平性が要求されることは言うまでもない。
 入試採点では、教師が想定した解答以外の別解が出てくることは普通のことで、採点中、採点者全員での議論が必要であり、採点基準は共有化されながら採点されないといけない。また、言うまでもなく、人は間違える。教員といえども、採点間違えは想定内である。したがって、採点済みの答案を点検する(再度採点する)体制をつくることは当たり前のことだ。
 国内の入試でも、今日塾などのチェックがあり、公開された模範解答の訂正などよくあることだ。採点、そして合否に、間違いがあってはならないし、間違いは最小限度にしなければならないが、採点し直しによる入学式後の合否の訂正も、これは学校の品格によるところが少なくないが、普通にあることだ。
 試験問題作成、試験実施の運営体制、採点業務のあり方は、要求があれば、説明責任として、可能な限り公開しなければならない。どのような能力をもった採点者・採点体制が、どのような基準で評価を下すのか。その評価の妥当性を説明しなければならない。採点ミスが起こったときはどのように対処するのか。入試実施前もしくは実施後に明らかにされなければならない。それなしに、試験を実施することは許されない。これらは試験を課す側の最低限の責任と義務と言えるだろう。

 ここからが批判的論点になるのだが、今回の英語スピーキングテスト導入にあたって、「運営体制、問題作成、採点業務等については、テストの公正・公平な運営上の機密事項に当たるため、公表することはできません」というのが実施する側の回答であるとのこと。私はこれを聞いて唖然・愕然とした。これひとつだけとってみても、今回のスピーキング導入はアウトではないのか。
 「運営体制、問題作成、採点業務等について…公表することはできません」とは!「テストの公正・公平な運営上の機密事項に当たるため」というのは全く理由にならない。まるで意味不明だ。

 今回の導入が、反教育的と言わざるをえない所以である。まず、試験を課す側が、教育とは何か、評価とは何か、学ぶべきだ。こんな試験を課そうとする教育者は教育者とも言えないのだが、「教育者自身が教育されなければならない」というテーゼをかみしめるべきだ。

〇英語スピーキングテスト評価点の偏重
 通常都立の入試は2月頃の実施となるはずだが、スピーキングテストは11月~12月の実施と、スピーキングテストは前倒しになるようだ。対面式でなくタブレットを使用して録音されたものが採点され受験者は1回だけ受験できる制度という。スピーキングというわりに、なんとも機械的で非人間的だが、試験内容としては、Part Aとして、音読のちから。Part Bとして、図示された情報を読みとり、質問を聞き取ったうえで、応答する。Part Cとして、日常的なできごとの話の流れを踏まえて相手に伝わるように説明するちから。Part Dとして、身近なテーマに対して自分の意見とその理由を伝えるちからをみるという。

 ひとつの問題として指摘されているのは、英語スピーキングテストの配点の高さ(偏重)だ。 

 中学3年間の学習の評価として、英語で「5」をとると、調査書点は23点になるという。一方、11月から12月にかけてのたった一日に受ける英語スピーキングテストは、20点の配点になるというが、この配点は大きすぎておかしい。国語・数学・理科・社会の調査書点が最高約23点なのに、英語は全部で43点にもなってしまう。これはバランスを欠いていると言われても仕方ないだろう*1

〇公平な採点は可能なのか(評価の信頼性)

 配点の大きい英語スピーキングテストの公平な採点は可能なのか。信頼できるのか。
 都教委の西貝氏は「誰が採点しても同じであることを確認しており、信頼できる」と言っているが、現場で普通に仕事をしてきた教師であれば、こうした意見を鵜呑みにできる教師はいないだろう。
 結論からいえば、約8万人の受験生のスピーキング評価を公平に採点することなど不可能である。公平でない採点で入試の合否が左右されるとなれば、合否判断は合理性に欠け、取り返しのつかない無責任な入試とならざるをえない。15の春を泣かすことなり、生徒不在の新制度導入と言わざるをえない。
 採点は国内(東京都)ではなく、外国であるフィリピンで採点されるという*2。フィリピンで採点をおこなう組織名、経営形態、雇用人数、雇用形態、専門性の担保等を質問したところ、「組織名と経営形態、雇用人数については、テストの公正・公平な運営上の機密事項に当たるため、公表できません」というのが返答だったという。驚くべき無責任と言わざるをえない。
 そして、評価基準のひとつとして、母語の影響を受けている発音というのがある。ひどく母語の影響を受けている、それほどでもないという程度問題の評価である。こうした基準は独り歩きする。「母語の影響」という基準を設けるだけで、それだけで、塾も生徒も話す内容よりも、母語の影響を削ぎ落す発音に懸命になっていくだろう。そもそも、母語の影響を完全に免れることはできないのだが、これは植民地的というべき愚策ではないか。

 より重要な問題として、英語を話すことを目標にした場合、その英語のモデルをどのように設定したらよいのかというモデル設定の問題がある。古くは、小田実氏が提唱されたイングラント、鈴木孝夫氏のイングリック、渡辺武達氏のジャパリッシュなどの英語モデルのことだ。
 日本全体の中高の英語教育の底上げをはかる際に、英語教育の目的、目指すべき英語モデルを明確にすべきだろう。

 その際に、母語の影響という視点で評価することは、今日的視点としてかなりズレてはいないか。

 「目指すべき英語モデル」については、本ブログでも少し触れたことがある。
 

amamu.hatenablog.com


 そもそも、話すちからを評価することは難しい。ぺらぺら話すが、内容に乏しい発話。訥々とではあるが、深い内容を話す発話。こうしたまさに人格に直結する話すちから(表現するちから)を評価することほど、難しいことはないだろう。
 まさに地球時代にあって、自律的な人間を育てなくてはならない。シェイクスピア研究で有名な英文学者・故中野好夫氏は、流暢ではなかったが、深い英語を話したという。こうしたことを考えるとき、母語の影響の多い・少ないを基準として評価することは、時代感覚からかなりずれていると言えるだろう。
 東京都の公立高校の生徒を選ぶ入試なのに、はたして「外注」(今回の場合はフィリピン)は責任ある入試といえるのか。東京都のテストなのに何故東京都が採点しないのか。
 英語スピーキングテスト導入が売国奴的という所以である。

〇英語スピーキングテスト導入にからむ利権
 TOEFL*3等、大学入試に活用することを提言し、混乱したうえで、頓挫したことは記憶に新しい。安倍晋三元首相が設けた「教育破壊会議」ともいうべき教育再生実行会議。安倍元首相のもとで下村博文文部科学省は「産業界・教育界が一丸となる」ことを強調した。いわば、民間試験の活用。これらは、教育的な課題から出発したとは言いがたい。

 過去に2000万人以上の情報漏洩があったベネッセ。ベネッセIDをとらないと受験できない制度だから、個人情報漏洩の危険性を生徒・保護者が感じるのも無理はない。

 そして、ベネッセがテストを実施するなら、対策もベネッセがよいだろうとなる。一企業を儲けさせるテストを公立高校の入試に使うのは、公教育を私物化すること。教育を食い物にすることではないのか。

 英語スピーキングテストが利権的と言わざるをえない所以である。

〇入試に英語スピーキングテストを導入することは、生徒にムチ打つ政策である、現場の教師を一層多忙化させることにつながる、むしろ教育現場を充実すべきではないのか
 何かの力を伸ばしたいと考える際に、試験に導入すればよしとするのは、最も安易な考え方である。充実した教育を望むのであれば、むしろ教育現場を充実させるべきだ。現場を充実するためにお金を使うべきだ。
 生徒の話すちからを伸ばすには、間違いを恐れないでという励ましが現場で必要なのに、試験で脅す、いわばムチを使う手法というのは、最も安易で間違った考え方である。

 教員を増やす。教育予算を増やすなど、教育政策としてやるべきことはたくさんある。そうした教育充実政策をやらずに、やらなくてもよいことを導入しようとするのはまさにアベコベ政策と言わざるをえない。

 英語スピーキングテスト導入が反教育的というべき所以である。

〇家庭の経済格差が学力格差を生む

 家庭の経済格差が学力格差を生んでいるのはよく知られた事実である。日本は、戦後の新憲法のもとで、教育の機会均等、公教育や健康保険制度など、比較的格差の少ない社会をめざしてきたが、戦後の反動政権は、「画一的」「没個性的」と、イギリスやアメリカ合州国のような差別的社会をめざしてきている。萩生田元文科省の「身の丈」発言などその一端にすぎない。

 英語スピーキングテストが導入されれば、親の経済状況が学力格差を生む状況は一層広がっていくだろう。

 英語スピーキングテスト導入が差別的という所以である。

 以下、参考までに、通訳ガイドというアウトプット重視型の志緒野マリさんの意見を紹介しておく。「発音は重要じゃない」「形にこだわるよりも話の中身が大切」「体験から言う、学校英語はほんとにすばらしい」「日本の英語教育は、そろそろ「アメリカかぶれ」や「イギリス追っかけ」をやめるべき段階にきていると思う」という指摘がたいへん参考になると思うからだ。

amamu.hatenablog.com

 

 今回の問題について、以下の「都立高校入試へのスピーキングテスト導入の中止を求める会」の意見に全面的に賛成する。

 利権的・売国奴的・差別的、なにより教育的でない都立高校入試へのスピーキングテスト導入の中止を求めます。

www.change.org

*1:普通、教育制度において、新制度を導入する場合、その影響を考え、導入時は影響の少ないかたちで導入するのが定石だ。導入する側は、おそらく、そうした教育的配慮など眼中にないのだろう。つまり、導入するなら、影響力の大きなかたちで導入したいという表れなのであろう。これも利権的・差別的・反教育的、そして生徒不在という指摘をせざるをえない。

*2:なぜフィリピンなのか。まず、なぜ国内(東京都)の責任ある体制で実施しようとしないのかが根本的な疑問である。万歩譲って、新安保体制下では、いわば思考停止状態で、アメリカ合州国の言いなり思考(指向)が主流となっている。英語もイギリス英語というよりアメリカ英語が主流だ。では、今回の導入では、なぜフィリピンなのか。これはEnglishesの中でも差別があり、コストの問題がおそらくからんでいるのだろう。フィリピンが問題だということではないが、差別的な構造であることは間違いないところだろう。

*3:TOEFLは、アメリカ合州国の大学への外国人の留学に用いられるテスト。