高校生のとき追いかけていた70年代ウェストコーストロック ー映画「ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック」・「エコーインザキャニオン」を観てー

 アメリカ合州国はカリフォルニア西海岸、いわゆるウェストコーストロック*1ドキュメンタリー映画である「ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック」と「エコーインザキャニオン」*2を観てきた。70年代初頭、高校生の時期にウェストコーストロックを追いかけていたので、このふたつの映画を感慨深く観た。以下は、映画の感想というより、高校生として70年代のウェストコーストロックをどのように見ていたか、振り返ってみたい。もちろん以下は個人的な感慨に過ぎないのだが、世代的にも重なるところがあると思う。俺には植草甚一氏の著作からジャズを聴きだした経験があるので、これから70年代の音楽を聞いてみようと考える人には役に立つところが少しはあるかもしれない。

ブラック・サンド・ビーチ(1965)

 東京生まれの俺は小学生のとき、加山雄三の音楽に惹かれ *3*4、区立中学校で英語を習った。ラジオからはポップスとビートルズ*5ローリングストーンズの音楽が流れていた*6

名曲”Get Back"が収録されたアルバム'Let It Be'(1970)

 イギリスから登場したビートルズはすでに世界を席巻していて、日本でもとくに俺の上の世代に絶大な人気があった。そのビートルズを真似て(パクって)商業主義的に結成されたモンキーズのテレビ番組も合州国で人気だったのだろう。日本でも吹き替え番組が中学生に人気だった記憶がある。

 洋楽に興味をもち始めたのは、第一に、連合国軍占領下の日本は世代的に知らないけれど、その後の日本は、日米安保条約下の文化状況が規範となり、テレビでは、アメリカ合州国のテレビ番組の吹き替えが当たり前のように放映されていた。ファッションでアイビールックが流行っていた。検定英語教科書もアメリカ志向だった。食文化でもコカ・コーラハンバーガ*7が入り込むなど、すでにアメリカ文化が普通に入り込んできていたからだろう。新しもの好きにとっては音楽でもあたらしい洋楽を受け入れるのは成り行きだった。

 中学校の先生たちは戦中・戦後を知っている先生方もいたから、授業中の雑談として「3S政策」の話を聞いた記憶がある。スクリーン・スポーツ・セックスだったか、順番はともかく、日本人を骨抜きにして占領するために、映画・スポーツ・性が有効というような話だった。当時「11PM」のような大人のテレビ番組もあったからそんなものかと思った記憶がある。

 洋楽に興味をもったものの、バブルガムミュージックをはじめティーンエイジャー向けのポップスはラジオから普通に流れていて、いわば当たり前過ぎて面白くなかった。俺の場合、バブルガムミュージックや10代向けポップスより、むしろ興味をもったジャンルが1960年代のフォークリバイバルの渦中にあったフォークソングだった。とくに、Peter, Paul & Maryの演奏と歌声*8に魅了され、歌詞を調べてみると、意味ある唄が多い感じがした。それがよくわからない歌詞の洋楽を聞いて理解したいという動機づけとなった。アメリカのものは何でもありがたがるという精神はさすがに軽薄に感じて羞恥心を覚えたから、フォークソングのもつ豊かな文化性*9は、海外のものをありがたがる植民地根性的罪悪感から多少なりとも逃れさせてくれた。当時すでに大学に通っていた姉から「フォークソング アメリカの抵抗の歌の歴史」*10という新書をもらって多少の知識も学んだ。

Peter Paul & Mary

 70年代初頭に都立高校*11*12 に進学した。英語教科書 Crown(三省堂)や作文文法教科書 A Better Guide To English Usage(開拓社)で学び、副読本では、難しかったがA.A. Milne、George Orwell、Saul Bellow、William Saroyanなどを読まされた記憶がある。学校外では個人的余暇として洋楽の歌詞と格闘し、時代は、アイビートラッドというより、ヒッピー文化の影響が強くなっていて、都立高校では、ブリティッシュロック好き、アメリカ合州国のウェストコーストロック、日本のロック好きなど、仲間によって好みが分かれ、Peter, Paul & Maryの"Blowin' in the Wind"が好きなら、Bob Dylanのオリジナルを聴いたほうがよい*13とクラスメートに教わったりした。俺の場合は、フォークソングからフォークロック、そしてウェストコーストロックに夢中になった。LPレコードも買うようになった。不安定な精神状況の思春期の琴線に触れたということなのか、なかでもNeil Youngに惹かれた*14

Everybody Knows This Is Nowhere(1969)

After the Gold Rush(1970)

 また日本でもプロテストソングやアングラフォークソングをふくめたいわゆるフォークソングが活発となり、俺の場合、加川良「教訓Ⅰ」、遠藤賢司「満足できるかな」(1971)を愛聴した。ラジオは重要な情報源だったから、カセットテープに録音してはいろいろと聞いていた。*15 

教訓(1971)

満足できるかな(1971)

 フォークからフォークロック、そしてロックへと音楽性も変容していく中で、Crosby, Stills, Nash & Young*16に惹かれ、“4 Way Street”*17、“Harvest”*18*19など、いろいろなアルバム*20を買っては聞いた。彼らの音楽性も自由だったが、“Ohio” (1970)*21 “Find the cost of freedom”(1970)など、歌う内容に抵抗精神と社会性を感じた。背景には、カウンターカルチャー*22エコロジー、ヒッピー文化、ベトナム反戦*23も時代状況に影響を与えていた。

4 Way Street(1971)

 本多勝一記者のルポ「アメリカ合州国」(1970年)も高校生のときに読み感銘を受けた。さすが本多記者はブラックミュージックの”ウッドストック”版「ハーレム文化フェスティバル」についても取材していて、後年映画"Summer of Soul"*24に結実し鑑賞する機会を得たが、高校生だった当時、ハーレム文化フェスティバルの音楽状況など知る由もなかった。

 こうして、リプリーズ(Reprise)*25というレコードレーベルは高校時代の俺にとっては見慣れたものとなり、70年代ウェストコーストロックを追いかけた。けれども、いま当時を振り返ると、高校生なりに理想と進歩を探っていたとはいえ、ウェストコーストロックを、少し美化しすぎていた感じがする。これは、レコードといくつかの音楽情報誌*26くらいしかなく、当時は情報が少なかったこと、そして、やはりやたらとアメリカ文化をありがたがる当時の日本の文化状況に大きく影響を受けていたところがあったように思う。ようやく少しは均衡のとれた見方ができるようになったということなのだろう。

 さて、ようやく映画の話である。

Laurel Canyon

Echo in the Canyon

 今回見た「ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック」と「エコーインザキャニオン」は、ロサンゼルス郊外のローレル・キャニオンを舞台としている。カリフォルニア州は、いうまでもなく南のロサンゼルスと北のサンフランシスコが二大都市であり、北のサンフランシスコにくらべて南のロサンゼルスは雨が降らず*27山火事が起こるほど乾燥していて温暖だ。イングランドスコットランド移民の歴史をみると、18・19世紀、植民地を自分たちの故郷と比較的同じ気候の場所につくる傾向があったようだ*28が、20世紀、遊びとなれば、温暖な地域に限るということになったのだろう。アメリカ合州国のカリフォルニアブームも、そうした流れのひとつのような気がする。カリフォルニアでも南のロサンゼルスのほうが大都市であり、温暖だ。都市生活の便利さも享受でき、かつ自然志向のヒッピー的なミュージシャンにとって、ローレル・キャニオンが注目を浴びたということなのではないか。

Laurel Canyon 赤印は当時ジョニ・ミッチェルが住んでいた家 南にサンセットストリップ

 都市生活でいえばコンサート会場(venue)も必要だ。当時有名なところで、West HollywoodにあるTroubadour Club*29とthe Sunset StripにあるWhisky a Go Go *30サンセット大通りにはナイトクラブもありいわゆる歓楽街だった。

Troubadour Club & Whisky a Go Go

 郊外のローレル・キャニオンとロサンゼルスの都市生活。映画でもあつかわれていたThe Buffalo Springfieldの"For What It’s Worth"(1966)。この唄をリアルタイムでは聞いていなかったので"For What It’s Worth"を反戦歌か南米かどこかの政治的市街戦を表現した唄と勝手にイメージしていたのだけれど、今回の映画で、若者の野外外出をめぐるロサンゼルスでの攻防戦(サンセットストリップ暴動)*31を歌った唄だと知った。

For What It's Worth(1966)

 繰り返しになるが、このサンセットストリップから北上したところにローレル・キャニオンがあり、そのローレル・キャニオンに、イギリスからはGraham Nashが、カナダからは、カナダ人であるJoni MitchellNeil Youngが、そして合州国の各州からアメリカ人が住み着き始め、若きEric Claptonも遊びに来た姿が映画に映し出される。当時、日本で新譜が出ると、ほぼリアルタイムでNeil Youngのレコードは必ず買い求めていたので、ライナーノートにトパンガ・キャニオン(Topanga Canyon)やローレル・キャニオン(Laurel Canyon)の紹介があったように記憶をしているが、当時のミュージシャンたちがあれほどローレル・キャニオンに集まっていたとは知る由もなかった。

 そのローレル・キャニオンのミュージシャンのコミュニティではThe Mamas & the PapasのCass Elliotが世話役だったという。The Beatlesの"Yesterday"や"Help"、The Rolling Stones の"Satisfaction"、そしてBob Dylanの"Like a Rolling Stone"がヒットチャートをかざった1965年。男女混成グループであったThe Mamas & the Papas の"California Dreamin’ "*32がリリースされる。ここから、いわゆるウェストコーストロックが幕開けすることになる。

 そのウェストコーストロックが盛んになった時期は、1965年の"California Dreamin’ "から"Hotel California"(Eagles)の1977年くらいといわれる。

 British Invasion *33と呼ばれるように、ビートルズの影響は言うまでもなく大きい。それがロサンゼルスでは、Beach Boysのサーフ・ロックが生まれたのは知られているが、あのモンキーズもローレル・キャニオンに住んでいたことは初めて知った。Mr. Tambourine Man(1965)などDylanの唄を、リッケンバッカー・360/12のロジャー・マッギンのフォークロックにのせたThe Byrds。"Light My Fire(1967)のThe Doors。個人的には追いかけなかったFrank Zappa。黒人メンバーがいたため南部で演奏できなかったLove。そして日本のはっぴいえんど*34も愛聴したThe Buffalo Springfieldもローレル・キャニオンゆかりのミュージシャンたちだ。

 Neil Youngの声は万人受けする美声とはいえず、The Buffalo Springfieldでも自分の唄であっても歌わせてもらえなかったが、蓼食う虫も好き好き(Different strokes for different folks)。当時高校生だった俺はNeil Youngを柱にしてウェストコーストロックを追いかけた。CSNやCSNY*35は、ソロもやる個性重視の構成で、それがバンドとなればそうした個性の集合体として機能した。フォークやロックなどの演奏形態もさることながら、個性重視であったから離合集散も繰り返す傾向にあり、音楽情報誌やレコードのライナーノートから、こうした動向を眺めていた。好きなアーティストが別のアーティストの唄をカバーすることも多く、相互のリスペクトを感じられることもよくあることだった。ただリアルタイムではあったけれど情報量が少ないことは否めなかった。

 映画鑑賞後、ローレル・キャニオンがミュージシャンが集まりコミュニティをつくっていた地域であったことを前提にあらためて振り返ってみると、ローレル・キャニオンという地域そのものが、こうしたアーティストによって歌われていることに気がついた。

 映画には登場しないが、俺も所有しているアルバム"Song Cycle"(1968)で、Van Dyke Parksは、”What is up in Laurel Canyon/ The seat of the beat,” と歌っていた*36

 CSNのアルバムジャケットは音楽好きの高校生には当時よく知られたジャケットだったが、今回の映画で、あのカバー写真がローレルキャニオンの廃屋で撮られたこと、バンド名の順に並ぶ写真ではなかったため撮り直そうと考えたが廃屋が取り壊されたため撮り直しが不可能となったエピソードを知った。

Crosby Stills & Nash(1969)

 そしてNeil Young と同じくカナダ出身のJoni Mitchell*37Joni Mitchellでは、アルバム'Blue'(1971)がなんといっても好みだが、'Ladies of the Canyon'(1970)というアルバムも意欲作で、このタイトル自身がローレル・キャニオンを指していることに気づいた。このアルバムには、エコロジーをテーマに落ちもあるといわれる名曲“Big Yellow Taxi”*38、一緒に暮らしていたGraham Nashのことを歌った”Willy”*39、ジョニ自身はウッドストックで演奏してはいないがCSNYヴァージョンでもヒットした “Woodstock” 、そしてNeil Youngの”Sugar Mountain”への返歌といわれる“The Circle Game”が収録されている。

Ladies of the Canyon(1970)

Blue(1971)

 Joni Mitchellの名盤"Blue’(1971)には、ベトナム戦争反戦意識(Give Peace a Chance)*40が高まる中、フランスに滞在していたジョニが好きなミュージシャン*41のいるロサンゼルス、ロサンゼルスはサンセットストリップの憎むべき大嫌いな警官にもキスできるほど*42カリフォルニアに望郷の念をいだく"California"’という唄が収録されている。

 映画では、David Crosbyらとの集まりに、イギリスからEric Claptonも参加し、ジョニ・ミッチェルの変速チューニングを眺めていたクラプトンが印象的だった。

 音楽活動の経歴が違うからなのだろう、今回の映画には登場していないが、キャロル・キングジョニ・ミッチェルと交流があった。Carole Kingの名盤'Tapestry'(1971)のアルバムカバーはLaurel Canyonのキャロル・キングの当時の自宅で撮られたものだという。SSW(Singer Song Writer)の流れという点ではジョニ・ミッチェルと同じだが、キャロル・キングの唄は、もとからR&BやSoul Musicとつながっていた。自分の唄を自分で演奏した'Tapestry'は上質のポップミュージックであった*43

Tapestry(1971)

 映画では、アリゾナ州はツーソン(Tucson, Arizona)出身のLinda Ronstadt。Elliot RobertsとDavid Geffinのつくったアサイラム(Asylum)レーベルから新世代のJackson Browne *44。J.D.Southerなども登場している。書きたいこともあるが、切りがないのでやめる。

 さて今回の2つの映画はロサンゼルスの話なので、映画には登場しないけれど、カリフォルニアは北に位置するサンフランシスコの動きもカリフォルニア音楽史としては重要だ。1965年頃より反戦の象徴としてFlower Powerということが言われだし、サンフランシスコと花は反戦の象徴として切っても切れないものとなった。1967年にScott McKenzieの”San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair) ”がヒットし*45、1967年夏のSummer of Loveと呼ばれる文化的・政治的な主張を伴う動きが起こった。地域的には、なんといってもサンフランシスコはヘイトアシュベリー(Height Ashbury)。広くはベイエリア(Bay Area)。ケルアック、ギンズバーグなどのビート世代の作家たち。ビートニック、ビート詩人。ヒッピー、カウンターカルチャーサイケデリック・ロック。バンドとしては、the Jefferson Airplane, Quicksilver Messenger Service, Country Joe and the Fish, Santana, the Grateful Deadが活躍していた*46

 個人的体験だが、大学卒業後かけだし英語教師になって、UCLA Berkeley extensionでの語学研修のため、1981年、はじめてアメリカ合州国を訪れ、半年サンフランシスコに滞在し残りの2カ月でアメリカ合州国を旅したことがある。音楽文化に興味のあったから、The Great American Music Hall*47, The Stone, Greek Theatreなど、サンフランシスコのあちこちの音楽会場に出かけた。*48

How Sweet It Is (To Be Loved By You)

San Francisco

 先に書いたように、いわゆるウェストコーストロックの時期は、1965年の"California Dreamin'"から"Hotel California"の1977年くらいといわれる。

 Neil Youngファンとしては、映画「エコーインザキャニオン」の最後にかかる"What's Happening"(1966)*49 featuring Neil YoungでのNeil Youngのギターが印象的だった。

www.bing.com

 ということで、映画の感想というより、高校生のとき追いかけていた70年代ウェストコーストロックについての洋楽に対する個人史となった。

 個人的印象に過ぎないが、カリフォルニアロックは、イーグルスというバンドで、大衆化し、メジャー化していく中で、白人中産階層向けの消費されていく音楽として溶解していった気がしてならない。ポップ化して、とくに怒りが消失した印象がある。メジャー化していく中で、骨抜きにされていくのは、古今東西共通した傾向なのだろう。大学生となり学生時代を過ごした1970年代は、Bruce Springsteenというロックの未来を担う新しいミュージシャンが登場し活躍することになる*50。大学生のときは難解だったがBob Dylan*51 と The Bandに惹かれていた*52

 60年代の夢の終焉について考えるには、映画でも触れていたように、マンソンファミリーによる衝撃的事件。チャールズ・マンソンに触れないわけにはいかない。映画でもDavid Crosbyがその恐怖を述べていた。

 udiscovermusicの「60年代の夢の終焉:ビートルズの解散とチャールズ・マンソン」によれば、「60年代の夢の終焉」について以下のように述べている。

 「しかしながら、ロックの楽園は外から見るほどバラ色の幸福感に満ちてはいなかった。最も大きい喪失は、1969年8月20日、アビー・ロードのEMIスタジオで行なわれたザ・ビートルズの新作セッションが、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人にとって、全員揃って一緒に作業をした最後の機会となってしまったことだ。

 ロサンゼルスでは、ビーチ・ボーイズのドラマーのデニス・ウィルソンが、自分の住んでいた自宅から逃げ出す羽目になった。というのも彼の友人であったチャールズ・マンソンの日に日に常軌を逸してゆく“ファミリー”の実質的な根城として乗っ取ってしまったのだ。ウィルソンの出奔から間もなく、デニス呼ぶところのザ・ウィザード(魔法使い)は、ザ・ビートルズから受け取った暗号による指示だと信じ込んだことに基づき、自らの思い描く革命を実行に移し、8月初旬にシャロン・テイトと友人たちを残虐に殺害したのである。」*53

On the Beach(1974)

 ラブアンドピースの象徴であったウッドストックフェスティバル(1969)に対しても'Tonight's the Night'(1975)に収録されている”Roll Another Number (For the Road)"で歌われるように*54Neil Youngは冷ややかな眼差しを向け始めた。ヒッピーの理想についても、アルバム'Landing on Water'(1986)に収録されている"Hippie Dream" でCSNの"Wooden Ships"を想定し否定的に振り返っている*55。マンソンについても、アルバム'On the Beach'(1974) に収録された”Revolution Blues"で触れることとなった*56

 サンフランシスコを本拠地にして活躍したSly & The Family Stoneの"Stand!"(1969)や"The Greatest Hits"(1970)、"There's a Riot Goin' On"(1971)も、リアルタイムで聞いたというより、少しずれて愛聴した。Sam Cooke ”A Change is Gonna Come”(1964) *57Aretha Franklin”Respect” (1967)*58など、俺は小学生・中学生だったから、これらもリアルタイムで聞いたはずもなく、英語教師になってから独学で学んでいったものだ。都立高校生時代に追いかけたウェストコーストロックにくらべるなら、ブラックミュージックにたいする理解が足りなかったと言わざるをえない*59

 さて映画には登場していないけれど、ロサンゼルスで活躍していたミュージシャンとしては、80年代に"I Love LA"(1983)*60をつくったRandy Newman*61を忘れることはできない。ロサンゼルスや南部を背景にして、70年代よりRandy Newmanは、さらにひねりを加えた深い内容の唄をつくっていたからだ*62

   '12 Songs' (1970)*63、'Sail Away' (1972)など、Randy Newmanに魅せられたお話はまた後日にしたい。

12 Songs(1970)

 自分の高校時代を振り返ってみて思うのは、当時の、海外の音楽文化にかんする情報量の少なさだ。いまのように、WebやYouTubeなどがあれば、もっと深く学べていたことだろう。レコードとライナーノートと音楽情報誌くらいだったから、熱中して追いかけてはいたけれどもちゃんとしたところはなかなかわからなかった。そもそも俺に「学」というものなどないけれど、「少年老い易く学成り難し」というほかない。

 もうひとつ思うのは、「歴史は音楽をつくるが、音楽も歴史をつくるということ」*64だ。何かを深めるには時間も必要ということか。

*1:日本ではウェストコーストロックといったが、英語なら「カリフォルニアの音楽」("Music of California")あるいは「カリフォルニアサウンド」(California Sound)という表現になるようだ。映画「エコーインザキャニオン」の副題にも、"the birth of the california sound"とあった。

*2:「エコーインザキャニオン」は、ローレル・キャニオンが輝いていた時代をボブ・ディランの息子のジェイコブ・ディランら若い世代が振り返る設定になっていて、ジェイコブ・ディランがフィオナ・アップルやベックなどの仲間とともにカバー演奏するかたちになっている。ジェイコブ・ディランはブライアン・ウィルソンらにインタビューし、トム・ペティとともに語っている。

*3:加山雄三"Black Sand Beach" (1965)。加山は、演奏・作曲・歌唱と、日本のエレキギターブーム、そしてシンガーソングライターの火つけ役の役割を果たしたように思う。世代的にはエルビス・プレスリーの影響も受けているだろう。加山は、来日したビートルズにも会ってすき焼きをすすめたという。

*4:加山雄三の「若大将50年!」を聞いてみた - amamuの日記 (hatenablog.com)

*5:“The Beatles Get Back The Rooftop Concert”を劇場で観てきた - amamuの日記 (hatenablog.com)

*6:たとえば、ポップスでは、Bobby Sherman "La la la (if I had you) "(1969)、Shocking Blue "Venus"  (1969)。Edison Lighthouse ”Love Grows (Where My Rosemary Goes) ” (1970)など、いまから思えば能天気な内容と言わざるをえないが、これらのドーナツレコードを買った記憶がある。Beatlesでは、"Get Back"(1969)、"Let it be"(1970)。さすがにBeatlesは水準が高かったが、ラジオをつければ流れていたので不思議とレコードは買ったことがなかった。また"Bridge Over Troubled Water"、"Your Song"(1970)などのヒット曲は、バブルガムミュージックとは言えない水準だった。

*7:マクドナルド」日本1号店が銀座にオープンした1971年7月は俺が高校生のときのことだった。

*8:Peter Paul & Maryの代表曲には“Blowin’ in the Wind” (1963)や"Don't Think Twice (It's All Right"、"Puff"などがある。

*9:合州国のフォークリバイバルのルーツは、イギリスからのバラッドや合州国の黒人音楽にある。後年、フォークリバイバルのルーツであるイングランドスコットランドアイルランド音楽などに興味をもち、ヌーラ・オコーナー氏の労作「アイリッシュ・ソウルを求めて (the Roots of Rock)」や茂木健著「バラッドの世界ーブリティッシュ・トラッドの系譜」などを読んだことがある。茂木健氏の「バラッドの世界」 - amamuの日記 (hatenablog.com)

*10:フォークソング アメリカの抵抗の歌の歴史」(三橋一夫)初版本は1967年だが、わたしのもっている版は1969年度版。

*11:洋楽好きの当時の都立高校生がどんな感じだったか。RCサクセショントランジスタラジオ」(1980)という唄がよくあらわしているように思う。

*12:THE RC SUCCESSIONの「76-’81&’88〜SOULMATES」 - amamuの日記 (hatenablog.com)

*13:’Blowin’ In The Wind’ の ”before you call him a man” - amamuの日記 (hatenablog.com)

*14:authenticなものは唄から学んでいた - amamuの日記 (hatenablog.com)

*15:はっぴいえんどの「風街ろまん」も1971年のリリース。URCのレーベル、関西フォークも盛んだった。浅川マキと小沢昭一のジョイントコンサート、初期のRCサクセションなども見た。

*16:弁護士がそれぞれ集まって合同事務所をつくる場合、おのおのの名前を並べて新組織を命名することがある。個人名を並べて音楽グループ名としたのは少し変わっているが、同時に、個人個人を大切にしている印象も与えてくれた。

*17:Crosby, Stills, Nash & Youngの4 Way Street - amamuの日記 (hatenablog.com)

*18:1971年のニールヤング - amamuの日記 (hatenablog.com)

*19:ニールヤングのHarvestというアルバム - amamuの日記 (hatenablog.com)

*20:たとえば、“Déjà vu”(1970) Crosby, Stills, Nash & Young。 “4 Way Street”(1971) Crosby, Stills, Nash & Young。“Everybody Knows This is Nowhere” (1969) Neil Young & Crazy Horse。 “Harvest”(1972) Neil Youngなど。

*21:ケント州立大学射殺事件に抗議してOhioを書く - amamuの日記 (hatenablog.com)

*22:ホールアースカタログなどの影響もあり、別冊宝島晶文社片桐ユズル植草甚一、芦沢一洋「アーバン・アウトドア・ライフ」などもよく読んだ。”Don’t trust anyone over 30”という標語もあった。

*23:本多勝一「戦場の村」(1968年)「北爆の下」(1969年)などのルポルタージュも愛読した。

*24:映画"Summer of Soul (...Or, When the Revolution Could Not Be Televised"を観てきた - amamuの日記 (hatenablog.com)

*25:初期のNeil Youngのレコードレーベルはリプリーズだった。

*26:主に中村とうよう氏の「ニュー・ミュージック・マガジン」「ミュージック・マガジン」。

*27:Albert Hammond“It Never Rains in Southern California”(1972)というヒット曲があった。

*28:たとえば、ニュージーランドクライストチャーチイングランド人が、オタゴはスコットランド人が入植した街といわれているが、北半球でのスコットランドイングランドの緯度の関係と、南半球のクライストチャーチとオタゴの関係は、緯度的には同じ関係になっている。大ブリテン島からの移民は寒い場所を忌避していないという印象があり、たとえば、オーストラリアでも、シドニーメルボルンへの植民が古い。そうした古い植民から今日では休暇を過ごすならクイーンズランド州などホリデイステイトと呼ばれる州やブリズベンへの人気が高まっていったような印象がある。

*29:トルーバドールには、Lenny Bruce, The Byrds, Richard Pryor, Nina Simone, Baffalo Springfield, Joni Mitchell,  Poco,  Steve Martin, Neil Young, James Taylor, Donny Hathaway, Randy Newman, Van Morrison, Bruce Springsteen & the E Street Bandらが出演した。

*30:ウィスキーアゴーゴーにはthe Doors, Janis Joplin, Led Zeppelinらが出演した。ウィスキーアゴーゴーで演奏を聞いたことはないが、1982年に外観だけ見たことがある。

*31:ロサンゼルスはハリウッドのサンセット大通りで、長髪のヒッピーの若者たちがプラカードをもって集まり、条例違反で逮捕者も出た1966年の攻防戦。この騒ぎに若き日のピーター・フォンダジャック・ニコルソンらも参加していたと言われている。

*32: "California Dreamin’ "には、"I'd be safe and warm if I was in LA"という歌詞の一行がある。

*33:ブリティッシュインヴェイジョンといわれるグループでthe Beatles, the Rolling Stones以外には、the Who, the Kinksなど。

*34:The Buffalo Springfieldの"Bluebird"をカバーしたはっぴいえんどの録音音源もある。

*35:The Buffalo SpringfieldからStephen Stills。The ByrdsからDavid Crosby。HolliesからGraham Nash。そしてThe Buffalo SpringfieldからNeil Youngで、Crosby Stills Nash & Young(CSNY)というグループ名だった。

*36:'Up Laurel Canyon'という唄。Lenny Waronkerがプロデューサー。

*37:Joni MitchellNeil Youngも、Elliot Robertsがマネージャーだった。

*38:以下、佐々木モトアキ氏の記事。Big Yellow Taxi〜環境問題に鋭く切り込んだジョニ・ミッチェルの名曲はこうして生まれた|TAP the DAY|TAP the POP

*39:Graham Nashは素朴な唄"Our House"をつくった。一緒に暮らした彼女はジョニ・ミッチェルといわれている。

*40:"Give Peace a Chance"(1969)はJohn Lennon反戦歌。John Lennonの’John Lennon/Plastic Ono Band’’(1970)は名盤。

*41:おそらくDavid CrosbyかGraham Nashを念頭においたバンド。

*42:"I'll even kiss a Sunset pig"という一行がある。

*43:ブルックリンでユダヤ系両親に生まれたキャロル・キングは、Goffin & Kingとして、Aretha Franklin や The Driftersに唄を提供していた経歴から、Aretha FranklinやDanny Hathawayら少なくない黒人アーティストがキャロル・キングの唄をカバーしている。

*44:Jackson Browneのアルバムとしては、 “Late for the Sky”(1974)、“Running on Empty”(1978)などがある。

*45:The Mamas & the PapasのメンバーJohn Phillipsが書いた曲。

*46:Creedence Clearwater Revival (CCR)は、1967年から1972年にかけて活躍したロックバンドで、サザンロックの元祖ともいわれるが、サンフランシスコを中心に活動した。簡潔な短めのシングルヒットを何曲も出した。

*47:David Crosbyの演奏もThe American Music Hallで見たことがある。

*48:The Greatful Dead, Jerry Garciaのコンサートにもよく出かけた。ジェリー・ガルシアの"How Sweet It Is"の演奏に酔いしれる - amamuの日記 (hatenablog.com)

*49:The Byrdsのアルバムに収録されたDavid Crosbyの唄。

*50:たとえばBruce Springsteen 'Born to Run'(1975)。

*51:'Before the Flood'(1974)

*52:'Once Were Brothers Robbie Robertson And The Band'を観てきた - amamuの日記 (hatenablog.com)

*53:「60年代の夢の終焉:ビートルズの解散とチャールズ・マンソン

*54:"I'm not goin' back to Woodstock for a while, / Though I long to hear that lonesome hippie smile. / I'm a million miles away from that helicopter day / No, I don't believe I'll be goin' back that way." from”Roll Another Number (For the Road)"

*55:”But the wooden ships / Were just a hippie dream / Just a hippie dream.” from "Hippie Dream"。

*56:Revolution Blues by Neil Young - Songfacts

*57:「リマスター:サム・クック」(“The Two Killings of Sam Cooke”)を観た - amamuの日記 (hatenablog.com)

*58:Aretha Franklin の "Respect"(1967) - amamuの日記 (hatenablog.com)

*59:どちらの映画だったか忘れたが、The BeatlesがLittle Richardの追っかけをしていたという逸話は俺も聞いたことがある。ビートルズの初期のレパートリーに黒人音楽文化からのカバー曲が少なくない。The YardbirdsEric ClaptonなどイギリスのブルーズメンがSonny Boy Williamson II、B.B. Kingなどアメリカ合州国の南部の黒人音楽・ブルーズから学んだこともよく知られたことだ。

*60:"I Love LA"は、1984年のロサンゼルスオリンピックのときによく流れ、一般に、ロサンゼルスを讃えたものと受けとめられているが、皮肉屋のランディ・ニューマンらしく、単純なロサンゼルス賛歌とはいえない。

*61:久しぶりにGreat Streets - Sunset Boulevard with Randy Newman VHSを観た - amamuの日記 (hatenablog.com)

*62:たとえば、アルバム'Sail Away'に収録されている"Burn On"。Randy Newman の "Burn On" (1972) - amamuの日記 (hatenablog.com)

*63: '12 Songs' 'Sail Away' 'Good Old Boys'(1974)、いずれもユダヤ系のLenny Waronkerがプロデューサー。

*64:「以上、わたくしは“原爆音楽”の特徴についてのべてきたのでありますが、もちろん、原爆音楽だけが現代音楽の主要なものであえるというのではありません。
 原爆音楽とつながるヒューマニズムの音楽、すなわち人間の尊厳をうたい、人びとに人間の尊厳と人間の権利の意識、またそのような感性と感情、情熱をつちかう音楽の意義を、あらためて、わたくしは強調するものであります。
 わたくしの考えを一言でいえば、歴史は音楽をつくるが、音楽も歴史をつくるということであります。」(芝田進午「核時代 Ⅱ 文化と芸術」青木書店1987年 p.97)