Maori

旅行ガイドブックで、タラナキ戦争を学ぶ

タラナキ戦争については旅行ガイドブックのロンリープラネットに詳しく、これから書く段落の部分だけをロンリープラネットから補足する。 そもそもタラナキ地域は古くからマオリが住んでいた地域である。 ヨーロッパからの植民は1841年から始まったのだが、…

マオリ王運動

このマオリ王運動として、1856年に、テ フェロフェロ(Te Wherowheero)が初代マオリ王として選ばれる。彼はポタタウとして(Potatau)、1858年にナルワヒアで正式に就任する。多くのヨーロッパ系移民からすれば、これは不忠に他ならない。マオリ王運動の影の立…

マイケル=キングの「ニュージーランドの歴史」を読んで、ワイカト土地戦争を復習する

イギリス国家(the British Crown)に対抗するために、つまり、いかにマオリが集結するかという戦略を練るために、1850年代に北島に住むマオリが連続して集まりを開き、これがマオリ王運動へと発展する。 あまりにも有名なこのマオリ王運動の事情については、…

ダニーデンとクライストチャーチ

イギリスの法律が急激に影響力を持ち始めたのは、南島である。 南島の大部分の土地は、ンガイ タフ(Ngai Tahu)が所有していたのだが、1830年代のンガティ トア(Ngati Toa)の侵略でかなりの打撃を受けていた。 そして、ンガイ タフは、1844年から1857年にかけ…

「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」から学ぶ−その2−

キース=シンクレア(Keith Sinclair)編の「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」(The Oxford Illustrated History of New Zealand)を参考にして、昨日の続きを書く*1。 土地を売ったマオリの動機は、パケハ(Pākehā)を隣人にしたかったという理由が…

「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」から学ぶ−その1−

キース=シンクレア(Keith Sinclair)編の「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」(The Oxford Illustrated History of New Zealand)という本を、アレックスの長女マーガレットの旦那のジェフから借りているのだが、これはなかなかいい本だ。 キース…

キヒキヒ

Site 22-Kihikihi 1864年2月24日、ランギアオヒア陥落の二日後、イギリス軍はキヒキヒ(Kihikihi)を占拠し、略奪をはかり、マオリの指導者であるレウィ=マニアポトの家を焼き払った。 マオリは家を捨て、馬や家畜を、プニウ(Puniu)川の南に避難させていると…

オラカウの闘い

Site 21-Orakau キャメロン将軍の野望は、1864年2月、ランギアオヒアを陥落させたことで満足した。 しかし、マオリの指導者・レウィ=マニアポト(Rewi Maniapoto)は、水や食料も十分にない中、300人以下の人数で、オラカウ(Orakau)に村(pa)*1を建て始めた。 …

ハイリニ

Site 20-Hairini ランギアオヒアの闘いの翌日の2月22日、パテランギ(Paterangi)から、マオリが大挙押し寄せ、ランギアオヒアを奪還した。 ランギアオヒアの1キロ西のハイリニ(Hairini)尾根にマオリが塹壕を掘っているとの情報を入手したキャメロンは、その防…

ランギアオヒアの聖ポールの教会を訪れる

次に訪ねるべきは、ランギアオヒアである。 テ アワムツのインフォメーションセンターで、ランギアオヒアへの行きかたを訪ねる。 ランギアオヒアには、テ アワムツからケンブリッジ方面に4.5キロほど向かい、マンディーノ道路(Mandeno Rd)で右折し、どん突き…

テ アワムツ博物館

Site 18-Te Awamutu Museum テ アワムツ博物館を訪れるのは、これで三度目だが、ワイカト土地戦争関連の資料では現在ニュージーランドで一番そろっている博物館である。オンラインのサイトは以下の通り。 http://www.tamuseum.org.nz/teawamutu.htm この博物…

聖ジョンのアングリカン教会

Site 17-St John’s Anglican Church, Te Awamutu テ アワムツは、「キリスト教伝道協会」(Church Mission Society)の「オタファオ伝道所」(Otawhao mission station)があったところで、この伝道所はワイカト土地戦争が始まるずっと前、1841年に設立されてい…

マオリ土地戦争ゆかりの地を訪ね歩く−その4−

前にも紹介したと思うが、キャメロン将軍はフロンティアの作戦本部(headquarter)として、さらにワイカト軍の冬のキャンプ地として、テ アワムツを選んだ。 キャメロンたちが到着する少し前に、第40連隊が10フィートの塹壕と高い壁で守られた500名をも収容で…

ピロンギアのアレキサンドラ砦跡地

次に、ピロンギアの二つの跡地、Site 15-Alexandra Redoubt, Pirongiaと、Site 14-Alexandra East & West Redboubtsを訪れるためにピロンギアに行くことにした。 オハウポから、テ アワムツ方面には行かずに、左折してピロンギア、カーフィア(Kawhia)方面に…

オハウポの砦跡地を訪れる

まず、Site 23-Ohaupo Redoubtに行ってみることにする。 オハウポは、ハミルトンからテ アワムツに行く途中にあるATMもないような小さな町だ。 テ アワムツに行く途中、これまでに何度も通過したことがあるのだけれど、オハウポには一度も立ち寄ったことがな…

マオリ土地戦争ゆかりの地を訪ね歩く−その3−

ネビル=リッチー(Neville Ritchie)によって書かれた「1863年−1864年のワイカト戦争−主な出来事と跡地−」(‘The Waikato War of 1863-64 -A guide to the main events and sites-‘)という小冊子にもとづいて、マオリ土地戦争ゆかりの地を訪ねる旅の途中で、突…

マオリの村落跡・キリキリロアがハミルトンと名づけられる

ハミルトンからナルワヒアまでは、20キロ弱の距離で、いま私が滞在しているハミルトンは、大英帝国の軍隊によって、1864年にキリキリロア(のちのハミルトン)やケンブリッジに砦や建物が作られたのだが、これらはこれらの地にあって、ヨーロッパ的な最初の…

初めてナルワヒアを少し歩いてみた

ナルワヒア(Ngāruawāhia)は、何度も車で通ったことがあるけれど、歩いたのは昨日が初めてだった。ワイカト川とワイパ川の合流地点であるポイントを歩くと、とてもいい気分になれるいいところだった。 ナルワヒアは、もちろん、ワイカトマオリの拠点とも言う…

マオリの聖地・ナルワヒアにある軍艦パイオニアの装甲塔

イギリス軍はランギリリからさらに南下し、1863年12月8日、マオリからなんら干渉されることなく、ナルワヒアにたどり着いた。 今日なおナルワヒアには多くのマオリが住んでいるが、マオリ土地戦争前は、ナルワヒアの上に位置するワイパ渓谷の土地にマオリが…

マオリ土地戦争ゆかりの地を訪ね歩く−その2−

Site 7-Rangiriri*1 ランギリリの闘い*2はすでに紹介したが、流れの関係で再度触れておく。以下の内容も、小冊子’The Waikato War of 1863-64’を参考にして書いている。 1863年11月20日、キャメロン将軍指揮下の部隊が、メレメレからランギリリに向かって行…

ランギリリでお茶にして、一日を振り返る

メレメレから車で15キロほど1号線を南下し、帰りがけにランギリリの戦場跡センターに寄ってみた。 休憩としてお茶を飲んだのだが、センターの所長は中東に出かけていて、あいにく留守だった。 このカフェに飾ってあるウィレム=タミハナの肖像画やキャメロン…

マオリのメレメレ砦

次の目的地は、Site 6 Meremere。メレメレ砦である。 コヘロア高地での敗退以前に、ワイレム=タミハナ(Wiremu Tamehana)*1の指導下で、マオリは塹壕を用いてメレメレを防衛していた。 8月から10月にかけて、軍艦パイオニアと小高い丘にあるメレメレ砦とで砲…

ファンガマリノ砦とマオリのテ テオテオ居住地

Site 5 Whangamarino Redoubt and Te Teoteo’s Paは、なかなか見つけることができず、かなり周辺を走り回ってしまった。 結局、探し回ってみたが、標識を見つけることはできなかった。 再度、小冊子から学んだことを書いてみる。 コヘロア尾根で戦ったマオリ…

マーサーにあるイギリス軍の軍艦パイオニアの装甲塔

ポケノから5キロ南下し、右折してマーサー(Mercer)に入ると、すぐにガソリンスタンドやカフェのある駐車場のついたサービスエリアのような場所がある。 広い駐車場に車をとめて、ここからワイカト川の方に歩いていくと、数分もしないうちに、Site 4-Pioneer …

コヘロア尾根古戦場

次の目的地は、Site 3-Koheroa ridgeだが、現在は農場地として私有地になっているようなので眺めるだけにした。 マオリ土地戦争は、1863年7月から1864年4月にかけて闘われたのだが、1863年7月17日、コヘロア砦の南方の高台にいたマオリに対して、キャメロン…

イギリス軍のエグリントン砦

小冊子が紹介する次の歴史的跡地は、ポケノから3キロ下ったSite 2-Eglinton Redoubtである。 オークランドからなら南下だが、ハミルトンから私は北上して来たから、来た道を戻ることになる。 1863年7月12日に、マンガタフィリ(Mangatawhiri)と呼ばれる小川を…

ポケノにあるイギリス軍の「イギリス女王の砦」

最初の目的地は、Site 1 –Queen’s Redoubt, Pokeno。これは「イギリス女王の砦」とでも訳すのだろう。名前から推測するに、イギリス女王が象徴であり、侵略戦争の「大義」だったわけだ。 ポケノでハイウェイ1号線を降りる。 ハイウェイ1号線を降りて町二入っ…

マオリ土地戦争ゆかりの地を訪ね歩く−その1−

ネビル=リッチー(Neville Ritchie)によって書かれた「1863年−1864年のワイカト戦争−主な出来事と跡地−」(‘The Waikato War of 1863-64 -A guide to the main events and sites-‘)という小冊子をテ アワムツ博物館にて二ヶ月ほど前に買い求めていたのだが、…

テ アワムツ博物館

昨日の日曜日はどこにも出かけなかった。 テ アワムツ博物館について、もう少しだけ書く。 テ アワムツ博物館の近くには、「砦通り」(Redoubt Street)と適切に名づけられている通りがあり、第40連隊の砦の跡地には、現在、赤レンガの警察署が建っている。 キ…

テ アワムツを再び訪れる

2ヶ月ほど前に訪れたテ アワムツ(Te Awamutu)を昨日再訪した。 ハミルトンからテ アワムツまでは、3号線を下って、30キロほどの距離で、町中を抜けて郊外に出ると、例のごとく法定速度が100キロだから、所要時間はそれほどかからない。 テ アワムツの博物館…