洋楽に興味をもったものの、バブルガムミュージックをはじめティーンエイジャー向けのポップスはラジオから普通に流れていて、いわば当たり前過ぎて面白くなかった。俺の場合、バブルガムミュージックや10代向けポップスより、むしろ興味をもったジャンルが1960年代のフォークリバイバルの渦中にあったフォークソングだった。とくに、Peter, Paul & Maryの演奏と歌声*8に魅了され、歌詞を調べてみると、意味ある唄が多い感じがした。それがよくわからない歌詞の洋楽を聞いて理解したいという動機づけとなった。アメリカのものは何でもありがたがるという精神はさすがに軽薄に感じて羞恥心を覚えたから、フォークソングのもつ豊かな文化性*9は、海外のものをありがたがる植民地根性的罪悪感から多少なりとも逃れさせてくれた。当時すでに大学に通っていた姉から「フォークソングアメリカの抵抗の歌の歴史」*10という新書をもらって多少の知識も学んだ。
70年代初頭に都立高校*11*12 に進学した。英語教科書 Crown(三省堂)や作文文法教科書 A Better Guide To English Usage(開拓社)で学び、副読本では、難しかったがA.A. Milne、George Orwell、Saul Bellow、William Saroyanなどを読まされた記憶がある。学校外では個人的余暇として洋楽の歌詞と格闘し、時代は、アイビートラッドというより、ヒッピー文化の影響が強くなっていて、都立高校では、ブリティッシュロック好き、アメリカ合州国のウェストコーストロック、日本のロック好きなど、仲間によって好みが分かれ、Peter, Paul & Maryの"Blowin' in the Wind"が好きなら、Bob Dylanのオリジナルを聴いたほうがよい*13とクラスメートに教わったりした。俺の場合は、フォークソングからフォークロック、そしてウェストコーストロックに夢中になった。LPレコードも買うようになった。不安定な精神状況の思春期の琴線に触れたということなのか、なかでもNeil Youngに惹かれた*14。
フォークからフォークロック、そしてロックへと音楽性も変容していく中で、Crosby, Stills, Nash & Young*16に惹かれ、“4 Way Street”*17、“Harvest”*18*19など、いろいろなアルバム*20を買っては聞いた。彼らの音楽性も自由だったが、“Ohio” (1970)*21 “Find the cost of freedom”(1970)など、歌う内容に抵抗精神と社会性を感じた。背景には、カウンターカルチャー*22、エコロジー、ヒッピー文化、ベトナム反戦*23も時代状況に影響を与えていた。
本多勝一記者のルポ「アメリカ合州国」(1970年)も高校生のときに読み感銘を受けた。さすが本多記者はブラックミュージックの”ウッドストック”版「ハーレム文化フェスティバル」についても取材していて、後年映画"Summer of Soul"*24に結実し鑑賞する機会を得たが、高校生だった当時、ハーレム文化フェスティバルの音楽状況など知る由もなかった。
都市生活でいえばコンサート会場(venue)も必要だ。当時有名なところで、West HollywoodにあるTroubadour Club*29とthe Sunset StripにあるWhisky a Go Go *30。サンセット大通りにはナイトクラブもありいわゆる歓楽街だった。
郊外のローレル・キャニオンとロサンゼルスの都市生活。映画でもあつかわれていたThe Buffalo Springfieldの"For What It’s Worth"(1966)。この唄をリアルタイムでは聞いていなかったので"For What It’s Worth"を反戦歌か南米かどこかの政治的市街戦を表現した唄と勝手にイメージしていたのだけれど、今回の映画で、若者の野外外出をめぐるロサンゼルスでの攻防戦(サンセットストリップ暴動)*31を歌った唄だと知った。
そのローレル・キャニオンのミュージシャンのコミュニティではThe Mamas & the PapasのCass Elliotが世話役だったという。The Beatlesの"Yesterday"や"Help"、The Rolling Stones の"Satisfaction"、そしてBob Dylanの"Like a Rolling Stone"がヒットチャートをかざった1965年。男女混成グループであったThe Mamas & the Papas の"California Dreamin’ "*32がリリースされる。ここから、いわゆるウェストコーストロックが幕開けすることになる。
Neil Youngの声は万人受けする美声とはいえず、The Buffalo Springfieldでも自分の唄であっても歌わせてもらえなかったが、蓼食う虫も好き好き(Different strokes for different folks)。当時高校生だった俺はNeil Youngを柱にしてウェストコーストロックを追いかけた。CSNやCSNY*35は、ソロもやる個性重視の構成で、それがバンドとなればそうした個性の集合体として機能した。フォークやロックなどの演奏形態もさることながら、個性重視であったから離合集散も繰り返す傾向にあり、音楽情報誌やレコードのライナーノートから、こうした動向を眺めていた。好きなアーティストが別のアーティストの唄をカバーすることも多く、相互のリスペクトを感じられることもよくあることだった。ただリアルタイムではあったけれど情報量が少ないことは否めなかった。
そしてNeil Young と同じくカナダ出身のJoni Mitchell*37。Joni Mitchellでは、アルバム'Blue'(1971)がなんといっても好みだが、'Ladies of the Canyon'(1970)というアルバムも意欲作で、このタイトル自身がローレル・キャニオンを指していることに気づいた。このアルバムには、エコロジーをテーマに落ちもあるといわれる名曲“Big Yellow Taxi”*38、一緒に暮らしていたGraham Nashのことを歌った”Willy”*39、ジョニ自身はウッドストックで演奏してはいないがCSNYヴァージョンでもヒットした “Woodstock” 、そしてNeil Youngの”Sugar Mountain”への返歌といわれる“The Circle Game”が収録されている。
Joni Mitchellの名盤"Blue’(1971)には、ベトナム戦争の反戦意識(Give Peace a Chance)*40が高まる中、フランスに滞在していたジョニが好きなミュージシャン*41のいるロサンゼルス、ロサンゼルスはサンセットストリップの憎むべき大嫌いな警官にもキスできるほど*42カリフォルニアに望郷の念をいだく"California"’という唄が収録されている。
さて今回の2つの映画はロサンゼルスの話なので、映画には登場しないけれど、カリフォルニアは北に位置するサンフランシスコの動きもカリフォルニア音楽史としては重要だ。1965年頃より反戦の象徴としてFlower Powerということが言われだし、サンフランシスコと花は反戦の象徴として切っても切れないものとなった。1967年にScott McKenzieの”San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair) ”がヒットし*45、1967年夏のSummer of Loveと呼ばれる文化的・政治的な主張を伴う動きが起こった。地域的には、なんといってもサンフランシスコはヘイトアシュベリー(Height Ashbury)。広くはベイエリア(Bay Area)。ケルアック、ギンズバーグなどのビート世代の作家たち。ビートニック、ビート詩人。ヒッピー、カウンターカルチャー。サイケデリック・ロック。バンドとしては、the Jefferson Airplane, Quicksilver Messenger Service, Country Joe and the Fish, Santana, the Grateful Deadが活躍していた*46。
個人的体験だが、大学卒業後かけだし英語教師になって、UCLA Berkeley extensionでの語学研修のため、1981年、はじめてアメリカ合州国を訪れ、半年サンフランシスコに滞在し残りの2カ月でアメリカ合州国を旅したことがある。音楽文化に興味のあったから、The Great American Music Hall*47, The Stone, Greek Theatreなど、サンフランシスコのあちこちの音楽会場に出かけた。*48。
ラブアンドピースの象徴であったウッドストックフェスティバル(1969)に対しても'Tonight's the Night'(1975)に収録されている”Roll Another Number (For the Road)"で歌われるように*54Neil Youngは冷ややかな眼差しを向け始めた。ヒッピーの理想についても、アルバム'Landing on Water'(1986)に収録されている"Hippie Dream" でCSNの"Wooden Ships"を想定し否定的に振り返っている*55。マンソンについても、アルバム'On the Beach'(1974) に収録された”Revolution Blues"で触れることとなった*56。
サンフランシスコを本拠地にして活躍したSly & The Family Stoneの"Stand!"(1969)や"The Greatest Hits"(1970)、"There's a Riot Goin' On"(1971)も、リアルタイムで聞いたというより、少しずれて愛聴した。Sam Cooke ”A Change is Gonna Come”(1964) *57やAretha Franklin”Respect” (1967)*58など、俺は小学生・中学生だったから、これらもリアルタイムで聞いたはずもなく、英語教師になってから独学で学んでいったものだ。都立高校生時代に追いかけたウェストコーストロックにくらべるなら、ブラックミュージックにたいする理解が足りなかったと言わざるをえない*59。
さて映画には登場していないけれど、ロサンゼルスで活躍していたミュージシャンとしては、80年代に"I Love LA"(1983)*60をつくったRandy Newman*61を忘れることはできない。ロサンゼルスや南部を背景にして、70年代よりRandy Newmanは、さらにひねりを加えた深い内容の唄をつくっていたからだ*62。
*1:日本ではウェストコーストロックといったが、英語なら「カリフォルニアの音楽」("Music of California")あるいは「カリフォルニアサウンド」(California Sound)という表現になるようだ。映画「エコーインザキャニオン」の副題にも、"the birth of the california sound"とあった。
*6:たとえば、ポップスでは、Bobby Sherman "La la la (if I had you) "(1969)、Shocking Blue "Venus" (1969)。Edison Lighthouse ”Love Grows (Where My Rosemary Goes) ” (1970)など、いまから思えば能天気な内容と言わざるをえないが、これらのドーナツレコードを買った記憶がある。Beatlesでは、"Get Back"(1969)、"Let it be"(1970)。さすがにBeatlesは水準が高かったが、ラジオをつければ流れていたので不思議とレコードは買ったことがなかった。また"Bridge Over Troubled Water"、"Your Song"(1970)などのヒット曲は、バブルガムミュージックとは言えない水準だった。
*20:たとえば、“Déjà vu”(1970) Crosby, Stills, Nash & Young。 “4 Way Street”(1971) Crosby, Stills, Nash & Young。“Everybody Knows This is Nowhere” (1969) Neil Young & Crazy Horse。 “Harvest”(1972) Neil Youngなど。
*54:"I'm not goin' back to Woodstock for a while, / Though I long to hear that lonesome hippie smile. / I'm a million miles away from that helicopter day / No, I don't believe I'll be goin' back that way." from”Roll Another Number (For the Road)"
*55:”But the wooden ships / Were just a hippie dream / Just a hippie dream.” from "Hippie Dream"。